終戦記念日

8月はロング・バケーション

2006年08月15日

終戦記念日というが、実際は「敗戦記念日」である。

1945年8月15日。
以降、平和憲法を掲げて、軍備はせずもっぱら経済発展を目指して61年間。
こんなに永きに渡って平和が続いて戦争が無い国は、長い歴史の中でも現在の日本くらいである。
何と有難いことか。
戦争被害体験者が、「どんな理由にせよ、何が何でも、戦争だけは絶対にしてはいけない」との言、説得力がある。
理由の如何にかかわらず、戦争を仕掛けたり、戦争に巻き込まれたり、戦争を仕掛けられたりするようなことがないことを切に願う。
次の50年間に向かって、平和を維持していくために、深く大きな英知を培い、最大限のエネルギーを発揮していかねば。
ねえ、みんな。

あまっちょるいものではない、しっかりとしましょう、スローライフ・日本!!

一言コメントを、掲示板にどうぞ。

[掲示板に寄せられた声]


死なないのはずるい! 吉田 良子 - 2006/08/27(Sun) 00:24 No.552 ?

小学校の5年生か6年生の頃のことです。
  ある日、私は近所のサダコちゃんとおしゃべりしていました。サダコちゃんのお父さんは戦死して、サダコちゃんはお母さんと弟2人の4人暮らしでした。終戦から10年くらい経った頃で、父親が戦死したという学友は少なくありませんでした。我が家も貧しかったけれど、サダコちゃんの家も増して貧しかったと思います。
  サダコちゃんのお父さんの戦死の話になって、「リョウちゃんちのお父さん、戦死しなくて良かったね」とサダコちゃんが言いました。「うちのお父さん、戦争に行かなかったもの。軍需工場に行ったんだって」と私が言ったその途端、サダコちゃんは大きく目を見張ってまじまじと私の顔を見て絶叫したのです。「戦争に行かないなんてずるい!それで生きてるなんてずるい!リョウちゃんなんて大嫌いだ!もう仲良くしない!」。サダコちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ち、次の瞬間、サダコちゃんはクルリと背中を向けて、走って行ってしまいました。私は返す言葉も引き止める手立ても思いつかず、ただ茫然と立ち尽くしていました。
  終戦時に、サダコちゃんのお父さんは20代後半、私の父は37歳という二人の年齢の違いが、戦地に行ったか軍需工場に行ったかの命運を分けたと思いますが、サダコちゃんも私もそのことに思いが至らなかったのでした。リョウちゃんのお父さんも戦争に行ったのなら、生きて帰れた幸運を祝福できるが、そもそも戦争に行かないなんて許せない!私にはそのサダコちゃんの気持ちは手に取るように分かりました。
  毎年8月15日、戦争関連のテレビ番組や新聞報道を見ると、サダコちゃんの罵倒する声と引きつった顔と沸き出た涙を思い出します。

 


Re: 61年目の終戦記念日 水野悦子 - 2006/09/06(Wed) 11:49 No.559 ?

終戦の日、国民学校4年生の私は宇都宮にいました。学童疎開から縁故疎開に転じて数ヶ月のころでした。強制疎開の名で住居を壊された家族(母・私・妹・弟)が父を東京に残して疎開した先は、遠縁のオジイチャンの家。オジイチャンは謹厳実直な在郷軍人でした。
その日、オジイチャンは私たちをラジオの前に座らせました。初めて見るオジイチャンの軍服姿は背筋をぴんと伸ばし、こども心にも怖いほど緊張の伝わる面持ちでした。
玉音放送はラジオの雑音にまぎれ、こどもの私には聞き取れません。でも、オジイチャンの様子から“ただならぬ出来事”を知らされたのです。オジイチャンの頭は背筋を伸ばしたまま直角に垂れ、放送が進むにつれて両眼から大粒の涙があふれ落ちていきました。放送が終わっても、オジイチャンは止めどなく流れる涙を拭おうともせず、いつまでもいつまでも無言でじっとしていました。
私は、おとなの男の人が泣くのをはじめて見ました。そして、一人ひとりがそれぞれ万感の思いを胸に終戦を迎えたことを、こども心に知らされました。
いつになく厳しい母の顔にホッとした一面が覗いたような気がしたことも覚えています。(後になって考えれば、戦争終結の安堵と戦後の混乱への慮りが母の心を揺さぶっていたのかもしれません。)
そんなとき、なぜか私の頭には1ヶ月前の宇都宮大空襲の場面が浮かびました。その夜の阿鼻叫喚(爆音・焼夷弾の雨・真っ赤な火の海・泣き叫び逃げ惑う人々、外へ逃げることをせず二階の一室でこども達を抱きしめてくれていた母の腕の中から見えたガラス戸越しの地獄絵)。そして翌日の惨状(コモを被せられた多くの死体を確認しながら知人の消息を尋ねた焼け跡場面)。ただ悲しく思い出されました。でも、「もう少し早く戦争が終わっていたら」などと考えることができたのは、その日からずっとあとのことだったと思います。

戦後は学校生活も大混乱。特に教科書を墨で塗りつぶす作業は、今でも心が痛む思い出です。作業の指示をしながら「ごめんなさい」を繰り返す担任の先生。「私はみんなに間違ったことを教えてきてしまった。ごめんなさい。」と泣いて詫びた先生の言葉と姿は、ほとんど真っ黒になった教科書に重なって、いまだに脳裏から消えません。

毎年、とりわけ終戦記念日前後には、こどもの身が体験した修羅場を思い出します。改めて平和の有難さを思います。世界中のこどもたちが“きなくささ”から解放されることを願います。

 

[8月はロングバケーション]

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