『メアリー・スチュアート』 アレクサンドル・デュマ著 作品社 2400円+税
『モンテ・クリスト伯』などで知られるデュマの初期の作品。
昨年暮れ、フランス旅行をする際に、昔からの愛読書『カトリーヌ・ド・メディシス』を読み直して、カトリーヌの王子や王女たちがヨーロッパの各国王室と軒並み縁組みしているのに驚いた。
第一王子の嫁には幼いメアリー・スチュアートを腰入れさせて育てていた。
メアリー・スチュアートの気高くも数奇な運命は以前から関心があり、デュマ作ということもあって本屋で目に止まり、即購入。
先ず、悲劇の女王と言われるメアリーの、波乱に満ちた人生を追ってみると…
1542年、メアリー・スチュアートは、生まれ落ちて直ぐにスコットランド女王となった。
父王ジェームズ五世スコットランド王の臨終の時に産声をあげたから。
イングランド国王ヘンリー七世の曾孫にあたる。
ここに後のイングランド女王エリザベスとの確執がある。
エリザベスの父イングランド王ヘンリー八世は、生まれたばかりのメアリーをまだ5歳のイングランド王太子の花嫁に要求した。
エリザベスはメアリーより9つ年上。
フランスの有力な貴族出身のメアリーの母マリー・ド・ギースは、ヘンリー八世を恐れてメアリーの身を暫く隠す。
6歳の時、フランス王アンリ二世の王太子フランソワとの結婚がスコットランド議会で認められた。
イングランドから逃れてフランスに脱出。
アンリ二世の后はカトリーヌ・ド・メディシス。
メアリーは母の実家のあるフランスで、文化的な明るい宮廷生活に育てられる。
1558年アンリ二世の第一王子フランソワと結婚式を挙げる。
翌1559年アンリ二世が死去、フランソワが16歳で王位に着く。メアリーは18歳でフランス王妃に。
翌1560年フランソワが死去。
メアリーは、やむなく翌1561年にスコットランド女王としてスコットランドに戻った。
メアリーは、その後取り巻きと2度の結婚をし、それが災いか、貴族達も割れて、宗教も割れ、国内で敗戦に敗戦を重ねる。
1567年一人息子のジェームズ六世にスコットランドの王冠を渡すはめに。息子はまだ2歳にもなっていない。
助けを求めて、支援派貴族の反対を押し切り、姉とも慕うエリザベスのイングランドに脱出。
が、1587年エリザベス女王に斬首されるまで、19年間幽閉され続けた。
「ブラッディー・メアリ」という飲み物がある。ウォトカをトマトジュースで割ったもの。
これは血塗られたメアリーということで、てっきりメアリー・スチュアートのことだと思っていた。でも、実はエリザヘスが女王座に就く前の女王だったメアリー一世を指している。
ヘンリー八世は最初にスペイン王女のキャサリン・オブ・アラゴンと結婚したが女癖が悪く、次々と后を変えた。ヘンリー八世は元はカトリックのため離婚はできない。それで宗教改革を行いイギリス国教会として自らが教主となり、離婚を成立させた。
しかし敬虔なカトリックのキャサリンは死ぬまで離婚に応じなかった。
このキャサリンとの間に生まれたヘンリー八世の第一子がメアリー一世である。
メアリー・スチュアートは、若くて美しい。
エリザベスは、このメアリーに、スコットランドとイングランドそしてフランスの正統な王位継承権をかざされたら勝ち目はない。
エリザベスはメアリーが生きている間は気が気でない、といったまぁこんな具合か。
おもしろかったぁ!
(11.01.26)
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