「轍の会」は能の金春流の毎年初夏に催される特別の会である。
6月24日(日)午後に開催された会にお誘いを受け、能を鑑賞した。千駄ヶ谷にある国立能楽堂において。
番組
能 「自然居士(じねんこじ)」
狂言 「腰祈(こしいのり)」
能 「砧」
「自然居士」
京都東山において自然居士(在家の宗教者)が雲居寺造営のための七日間の満願説法を行っている。
そこへ一人の少女が亡くなった両親の追善供養の文(ふじ)を捧げ施物として小袖を供えに来る。すると、その少女を買っていた人買い商人が少女を連れ戻しにきて連れていってしまう。
自然居士は、説法の満願を控えていたがそれを捨て、大津の浜まで追いかけ、舟を引きとめ小袖を返して少女を連れて帰ろうとする。
人買いは命を取るぞと自然居士を脅すが居士はびくともしない。人買いは諦めて、居士に<中の舞>、<舟の曲舞>、<ササラの舞>、<鞨鼓の舞>をさせて少女を返す。
観阿弥作と言われている初期の能。 大望を捨て少女を救うという事。
「腰祈」は、
山伏が、久々に祖父を訪ねて、曲がった腰を治してあげようとする。しかし神通力が強すぎて、反り返りすぎたり、また曲がりすぎたりする。
どんなに優れた能力でも日常の役に立たないのでは意味がないとの例え。笑わせる。
「砧」は、
訴訟のため上京している夫が、九州芦屋の妻のもとに侍女に便りを持たせて送る。
侍女は夫と居た若い女。妻は侍女に怨みの言葉を投げ、三年も孤閨を守る辛さを訴える。捨て置かれた中年の女の濃艶な感情で孤閨を満たすべく砧を打つ。ぞっとする程の深い怨みの思いがある。今年も帰れないとの報せに、妻の狂乱は絶望によって終焉する。
帰国した夫が弔っていると、妻の亡霊が現れ、恋慕の妄執のために地獄の苦しみを受けていると訴えるが、法華経の功徳で成仏する。
後シテの「痩せ女」の面が凄みを帯びている。
能は何度観てもいいものである。いや、何度も観ないと分からないのかもしれない。
いつも連れてくださる方は、奥深く味わっておられる。能の言葉遣い、詞章がいいのだと。彼は小学四年の時から能を観ているそうだ。私はまだたったの10年そこら。もっともっと知りたい。
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