近頃、能を観る機会が多くなった。
能は、シテ、ワキ、アイと登場人物が少なく、面と衣装と動きだけで全体の大きな雰囲気を表す。そして、小さな仮設の象徴的作り物、動きも大仰なものでなく、謡、笛や鼓、地謡で物語りの起伏をおこす。それだけでこちらのこころにせつせつと主題が伝わってくる。
深く落ち着いたこころ持ちを与えてくれ、こうした凜とした能の神髄は素晴らしい日本の伝統芸術であり誇るべきものである。
知人が古希を記念して、国立能楽堂で「俊寛」を演じた。その鑑賞以来の能とのつきあいである。
「俊寛」という曲は、仁和寺の僧都俊寛が平清盛を滅ぼそうと三人で謀ったが漏れ、鬼界島に流される。他の二人は赦免で都に帰るが俊寛は一人残されて叫び泣く。
「葵上」は源氏物語からのもの。病に伏せている源氏の正妻葵の上は、舞台に一枚の小袖として置かれる。病の祈祷、物の怪退治で現れる元皇太子妃六条御息所は、秘せど煮えたぎる嫉妬の情を泥眼の面と般若の面、鱗模様の衣装で表す。能面は角度の違いで微妙に表情が変わり、無言のうちに物語ってくる。
「藤戸」は、佐々木盛綱が源平合戦の折、藤戸で功をたて頼朝から藤戸の土地を与えられ、その土地に入り住民の訴えを聞こうとするところから始まる。
そこへ殺された息子を返せと老婆が迫る。実は盛綱は藤戸の戦いで地元漁師の浅瀬案内で手柄をたてたが、他に漏れないために漁師を殺していた。老婆はその漁師の母親。
老婆の自分も殺せというまでの訴えに、盛綱は己の非を認め弔いをすることになる。
弔いに漁師の亡霊が現れ、理不尽な殺されようを語り、たたりをなすつもりであったが、盛綱の弔いで成仏していくという話しである。
それぞれの主題は今も響いてくる。
特に「藤戸」は、現在も各地で頻発している戦争や災害で、権力者の身勝手な論理に翻弄され無惨に失われていく多数の無名の命を思ってしまうのは、筆者だけではあるまい。
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