電気新聞「今週の一冊」欄に載せた最近の書籍紹介

友情』(2005年07月22日)

『友情』

   ーーある半チョッパリと四十五年

西部邁

新潮社  1600 円+税

 

 

 読み応えのある著書である。著者独特の深みのある感性、言葉使い、表現が効いて、ややもすれば個人的閉塞的になり勝ちな自伝が、それぞれの時代背景の分析を加えて高度な社会的評論ともなっている。

 時代舞台は、「あの時代のあの札幌」。そして、敗戦からバブルが弾ける昭和期を辿っている。

 北海道に限らず、戦後は日本中に、遮二無二に立ち上がっていく社会の側らで、どうしようもなく極貧にのめり込み、這い上がることのできない人々は身近にいた。不思議と、また当たり前だが、幼心にはその貧富の区別は出来なくて、子供たち同士の表情は等しく朗らかで元気そのものだった。

 

 半チョッパリとは、半日本人という差別語。それを知らずに、逆に解釈して半朝鮮人と蔑視されたというトラウマで、つまり自分の出生の本当のところが定かでない極貧の男の子と著者が、中学生から関わりがあり、 45 年間親密ではなくともどこかで繋がっていた関係を、両者を自伝的に思い起こして書かれている。

 この著の基礎資料は、著者に送られた、その友人が自殺を覚悟して獄中で書いた膨大な量の手記である。

 友人は、義を重んじる薄野でも有力な八九三になっていた。八九三は足すと末尾がゼロ、つまりブタだ。友人は「公」の社会で自分がゼロになることを引き受け、「私」の社会では任侠に徹しようとした。その任侠のあまりに、アウトロー社会のアウトサイダーへと自ら追いやる。

 

 片や思想面での八九三の端くれとなったという著者は、東大で学生運動にのめり込み、投獄される。

 双方の共通点は、気が向けば知識欲旺盛、学習熱心だったというところ。進学高校で 1 2 の成績を争っていた。ただ友人の方は空腹困窮に絶えかねて退学し、行動面の八九三の世界に入ったということ。そしてヒロポン中毒で身を滅ぼしていく。

 著者らの世代は、 40 歳代以降社会のバブルを見、国民の道義が私欲の渦に飲み込まれ、国民の言説が私欲の熱気であおりたてられていくのを見た世代である。そうした世相に馴染むということは、自分に絡みついた過去の ( 記憶の ) 鎖を崩していくことである。

 が、そうした制限を失うということは、自分が存在する理由を見失うことであり、著者ら双方それを欲せず、そんな世相から取り残されたのだった。

 読んでいると、俄か成金と平和ボケに浮かれている心が落ち着き、昔の原風景への懐かしさが静かにこみあげてくる著書である。

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