『鄙への想い』

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読書日記

2017年12月20日

『鄙への想い』 田中優子 写真・石山貴美子 清流出版 1800円+税

著者田中優子氏は「江戸学」研究家。昔の日本に思いを寄せ、アジア各国の成り立ち方など、広く歴史というよりは今も息づいて伝わっている様々なその地に根付いた自然の想いを考えている人だ。
法政大学の総長をも務める。
始めは、という日本の地方の"山や川やそこで暮らす人々をめぐる軽いエッセイを書くつもりだったが、第一回を掲載した直後、3月11日がやってきた。まるで「そんな表面的なことを書いても仕方ないよ」と言われながら、地球の表を一枚ぺろりとめくられたような気分だった。その下には、鄙と都の構造的問題がひしめいていた"と、あとがきにしるしている。
鄙はもはや「コミュニティー」とはいえないほど生産力を失い、そのことによって都(を中心にする国家)に利用され、グローバリズムに翻弄され、依存を余儀なくなされている、とも。
福島と東京、古くは水俣と国、沖縄と日本などの関係性を鋭く抉る。
鄙が守り続けた自然環境、自然との共存、人とのつながりはその土地の人にしか分からないことなのである。どんなに近代科学でコンクリート化しても自然の驚異にはかなわないのだ。
自然を、農業、漁業を大切にすることが重要だと忘れていた当たり前のことを思い起こし考えさせられる。
平塚雷鳥(らいてう)と著者は縁続き。らいてうが『青鞜』でうたった「元始、女性は太陽であった」の太陽は日没の太陽のことなのである。明(はる・本名)は、近代的自我を装った男に信州で心中事件を持ち込まれ、男は酔いつぶれ、明はその雪の大自然に心打たれ座禅を組む、という実態は喜劇ながら心中事件と世間に取沙汰される。その後信州に再び戻り気を取り直した春は、自ら一羽の雷鳥となって太陽のまわりをめぐると考えた。
彼女は女性解放運動家なんかではなく、自然崇拝者、近代科学を云々する男など眼中になく、そんなものを上回る大自然を捉えていたのだ。

これではいけない、成程とさまざま頷くことばかり。地方再生などと軽々しくいっているが、生易しくは再生できないだろう。ほとんどの日本人が近代的グローバル化の名の下、都会で暮らしているつもりで、惜しげもなく故郷をすてている。
まだ残っている希少な本来の鄙を何とか大切に育ててゆけないものか

 

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