『余は如何にして基督信徒となりし乎』 内村鑑三 岩波文庫 780円+税
この古典を今更読むことになったのは、テレビのある番組で末期医療に尽くしている医師が、"人生の目的は品性を完成することにある"、と内村鑑三が言っているという話しをしているのを耳にしたことである。
成る程、品性を完成する努力をする、これなら納得だな、心掛けよう、いいことだと思った。
因みに、この言葉は、軽井沢の星野旅館の主に経営の在り方について話した時の言葉だそうで、人生の目的は財をなすことではなく人としての品格を完成することにある旨話したようだ。
軽井沢で「芸術自由教育講習会」を島崎藤村らと主宰した際、軽井沢の貸別荘に滞在したためか、軽井沢に「石の教会」という建物があり、内村鑑三記念堂となっている。無教会主義を説いた彼の記念堂なのだ。
内村鑑三の本は初めて読む。彼は60冊以上の著作を残している日本いや世界の思想家であるのに。そして、彼の名言の一つに、"書を読まざる日は損失の日なり" と言う言葉も肝に響いてくる。
本著を読んで、とにかく感動した。
先ず、彼の人となりである。宗教を通して、激しく精神の在り方を追求したひとである。正に思想家である。
本著は、「余は、グレゴリー歴によれば、1861年3月23日に生まれた。」と始まる。江戸時代末期である。
そして、幼少期は八百万の神礼拝に苦しみ父の厳格な儒教の教えに従っていた(異教)。札幌農学校2期生として入学。同期の新渡戸稲造らと供に半ば強制的にクラーク博士の書き残した「イエスを信ずる者の契約」にサインして、基督教に入信する(回心)。が宣教師らへの不信は強まり、基督教国アメリカへクラーク博士らを頼って実地研修に出る。
が、巷での基督用語を用いた罵詈雑言や極度の貧困を見、基督教国への強烈な不信と失望に駆られる。白痴院での看護人としての職を得るも慈善事業の自己犠牲に苦悩は募りそこを去る。その後、あるカレッヂを卒業し神学校に入るも、"坊主" になる気はさらさら無く、学位などは全く手にしないで帰国する。
そこまでの過程を、副題が示すとおり日記から引用しながら、何故ではなく如何に信徒となったかを綴っている。
勿論、数々の苦悩の中に何故は偲ばせているのは当然である。
宗教について全く疎いわたしだが、読んでいて、幾つか少し明るくなった。
基督教は世界的宗教である。何故。基督教外国伝道は、基督教それ自身の存在理由(レーゾン・デートル)なのである。外国伝道の精神は主の精神、彼の宗教の真の特質である。その純粋性を立証するに不断の伝播を必要とする。ひとたび伝播を中止すると、それは生きることを中止する、と。
我々は、不敬虔な科学は軽蔑する。しかも科学なき福音宣伝には多くの価値を置かない。余は信仰は全く常識と両立し得るものであると信ずる。宣教師よ、(異教国に) 健全な常識をもって来たれ、と。
この本は英文で書かれた。完成は1893年、明治26年。当初アメリカでの出版を希望したが叶わず。その後、世界各国語で出版されるが、日本語の翻訳は彼の死(1930年)後、1935年(昭和10年)になって岩波から本書の形で初めて出版された。
明治大正期にはもの凄い思想家がいたものである。
仕事に追われ読む時間が無かったとは言え、我が不勉強を悔やむ。しかし、この歳になったからこそ読んで解るのかも知れぬが。
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