思い立って、11月08日と09日に奈良まで行ってきた。
正倉院展を一度観てみたいとかねがね思っていた。
開催は14日までだ。
奈良ホテルの宿泊予約が取れたので急遽出かけることにした。
家を5時40分に出て、久々に東京発新幹線、7時丁度に乗る。
かつては、月2、3枚の新幹線予約切符を持っていて、仕事で新幹線を多く利用していたこともある。
その際は事前に資料やメモ類に目を通さねばならず、目的地までもあっという間だった。
それに比べると、フリーでスローな旅、新幹線はとてもとても退屈だ。
新聞など10分ともたない。近頃の新聞の面白くないこと。
やはり、和辻哲郎の『古寺巡礼』を持ってくればよかったな。
でも、一泊で、出来る限り歩こうと、荷を軽くし、文庫本すら入れるのを止めた。
化粧品は口紅と櫛とコンパクトのみ。
ネットで検索、プリントアウトした東大寺などの資料を再度読む。
京都に9時半着。
乗り換え、近鉄で奈良まで。
10時には奈良に着いた。
駅で博物館入場券を買う。
既に近鉄奈良駅からの通りは人出で大賑わい。
多少の混雑は覚悟した。
正倉院展 奈良国立博物館
人と人懐っこい鹿をかき分け、奈良国立博物館に着くと、唖然!
朝早いほうが空いているかと思いきや、10時過ぎで、既に入館45分待ちの長蛇長蛇の列 !!
(帰りに通ったら夕方の方が列は少ない。)
右側から廻り込んで、正面を3回廻っての行列 !!!
内部は撮影はできませんでした。
当然ごった返している人並み。空きを見計らって、ゆっくりと、とまた人混みが…。
・ 金銀でん荘唐太刀(きんぎんでんそうのからたち) 聖武天皇の愛蔵品だったといわれる唐伝来の美しい太刀。唐草もようの金具に水晶やガラス玉が施されて、それは美しい鞘に収められている。太刀もいまだぴかぴかで、これならば実戦に使える。
正倉院には当初100の太刀があったが、殆ど戦で持ち出されて返却されていない。残ったのはこれ一つ。
・ 黄熟香(おうじゅくこう)ー蘭じゃ待(らんじゃたい) 沈香の香りの大きな香木 。
・ 碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ) 空色の地に美しく花や鳥が彩られている小箱。
その他、絞り染めの上着、これは東大寺造営担当の役所の役人の作業着(名前が書かれていた!)。東大寺三堺四至図(とうだいじさんがいししず)、東大寺の寺域を定めた756年6月9日の地図。十二支八卦背円鏡(じゅうにしはっけはいのえんきょう)、十二支文や八卦文、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などが描かれた宝物鏡56面中最も重い52.8kgの鏡、日本製。出蔵帳、宝物を正倉院から出した時の記録。
等々が展示されている。
奈良の都の天平の当時がそのまま伝わってくる、有り難くも不思議な香り、を嗅ぐように努めました。
1時間ほど鑑賞した。
午後は徒歩で東大寺へ向かう。
東大寺へ
そうそう、インドの牛のように、奈良には鹿がたくさんいます。
それがなんともかわいい。すまし顔で、寄ってきます。
インドの牛は宗教上ですが、奈良公園の鹿は、国の天然記念物に指定されています。
1200年以上も前の昔、春日大社の祀る武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が常陸(今の茨城)の鹿島神社から白鹿に乗ってやってこられたことから、鹿は神の使いとして大切に保護されてきたとのこと。
東大寺参道
奈良市の東の方、三笠山麓の深い緑の中に東大寺はある。
その昔、遣唐使として唐に遣わされた阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝に見込まれ唐の図書館長のような職に就かされ、帰国が果たせなかった。
彼の読んだ詩
" 天の原 振りさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも "
望郷の念が滲み出ている。
以前に西安に旅した時、この詩碑が建つ長安(今の西安)の地に佇んだことを思い出した。
東大寺の正式名称は華厳宗大本山
始まりは、聖武天皇の皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を追修するために神亀5年(728年)に建てられた金鐘山寺(きんしょうさんじ)。
その後、天平13年(741年)に国分二寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられ、金鐘山寺が昇格して大和国金光明寺となった。
東大寺という言葉は、正倉院文書(天平19年12月15日「写経所解」)などに出てくる。金光明寺が大仏殿を中心とした大伽藍となり、平城京の東に建つ大寺(官寺)と言う意味で東の大寺と呼ばれるようになった。
金鐘寺において天平12年から3年間、我が国で初めて華厳経の講説が行われる。東大寺は華厳経である所以。
東大寺南大門
大仏殿(金堂)
聖武天皇は医療福祉行政に尽くす。
天平15年(743年)、万代の福業を修めるため「盧舎那仏造顕の詔」を発し、大仏造像事業が始まる。
大仏さまが大きいのは、華厳経によれば盧舎那仏は宇宙(無限大)そのものであるよう表現されているため。
門
左側に廻ると入り口。
左右ぐるりと回廊で大仏殿に繋がる。
大仏殿
大仏さま
ぐるりと拝観。
お側に使えている仏像ら。
四月堂
二月堂の2階から見た東大寺界隈と遠くに奈良の街。
二月堂
大仏開眼供養会が天平勝宝4年(752年)に行われ、二月堂で修二会が行われ、これは今日まで絶えることなく「お水取り」「お松明」として伝えられている。
お休み処の古い釜。現役。
三月堂
散策途中、大仏さまを造るのに余った鋳物で造られた鐘に出会う。
大仏殿に戻ってきました。
修学旅行の面々も混じって、この人混みです!!!
秋の午後、時期も時期ですから、ね。
このように、ぐるりと大回廊で繋がっています。
門の両側におわします仁王さま。
参道まで戻ってきました。
修学旅行の生徒たちで賑やかです。
私も40年、いゆ50年前(!?)に、高校2年の春休みが奈良京都への修学旅行でしたっけ。
いろいろとおもいだされます、懐かしいこと!
そして、大学生の時に、姉に連れられて奈良を旅とたことがありましたね。
一休みして、2時頃に興福寺へ向かう。
興福寺へ
藤原鎌足が大化改新(645年)成功を願って造立した釈迦三尊像を安置するため、妻の鏡女王が山科に669年に建てた山階寺が起源。
都が近江から飛鳥に移る710年平壌遷都にあわせて現在の地に移された。
藤原氏や朝廷が係わって、以降絶大な勢力を誇る。
その後、源平戦乱の大火などにあう。
1868年の明治維新後、神仏分離政策、廃仏毀釈で、興福寺の僧侶全員が春日社の神官になり寺から出た。
寺は無住となる。
現在復興に立ち向かっている。
国宝館や北円堂で、運慶作の弥勒如来座像、阿修羅、無著世親菩薩像、などなどが特別展示中。
南円堂
五重塔
東金堂
南円堂
三重塔
北円堂
藤原不比等一周忌の養老5年(721年)、元明・元正天皇がその霊を慰め、平城京を見渡せる地に建てられたもの。
治承4年(1210年)平家の焼き討ちで消失。他伽藍も消失。この北円堂は承元4年(1210年)再建。
この治承の大火の消失から、復興を担ったのが鎌倉時代を代表する運慶らの仏師たち。
左側など中金堂の復元中。
かれこれ4時近くになりました。
そろそろ疲労感がでてきました。
ずーと歩いていましたから。
宿の奈良ホテルに向かいましょう。これも歩いて。
途中春日大社の参道がありました。
この鳥居をくぐって真っ直ぐ行けば春日大社です、が、止めておきます。
一の鳥居
程なく奈良ホテルです。
今日はこれでお終いっ。
流石に歩きくたびれましたです。
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