宿の奈良ホテルは関西の迎賓館と言われた所らしい。知らなかった。
お泊まりになられた皇室の方々のお写真がずらりと並ぶ。
アインシュタインが宿泊当時弾いたというピアノもあった。
奈良ホテルの敷地は今もJR所有とのこと。
鉄道開通時、内外の要人の宿泊施設として明治42年(1909年)に鉄道省・つまり国によって奈良公園の高台に建てられた。
その昔は、この一帯は前日行った興福寺の所有だった。
でもっと昔は、これから行く元興寺の方が大きくてそこの所有だったそうな。
さて、朝、その奈良ホテルが管理しているという、ホテルの隣にある名勝旧大乗院庭園に先ず行ってみる。
大乗院は、興福寺の門跡寺院として奈良時代から室町時代にかけて栄えた。
15世紀末、当時髄一の庭師善阿弥が関与した庭園遺構。
その後荒廃したが、園池とその周辺13000m2が1958年に国の名勝に指定。
2010年から一般公開。
その昔の土塀。
池の湧き水はその昔からで、足りなくなると水道水をたしているとか。
背が奈良ホテル。
元興寺(がんこうじ)へ
538年に仏教が伝来し、588年(崇峻元年)飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を起工する。
養老2年(718年)、法興寺を平壌(いまのところ)に移し、寺名を元興寺とする。
だから、当時随一の大寺であった。東大寺はこの後になり、新しい訳だ。
栄枯盛衰を重ね、鎌倉時代以降、地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰が入り交じって庶民に支えられる。
智光曼荼羅が本尊。
現在世界文化遺産に登録され、修復保護調査がすすめられている。
国宝 元興寺禅室
本尊 智光曼荼羅
裏側に鮮明な模写が掲げられている。
禅室の古材(巻斗)
588年までの年輪が確認され、『日本書紀』の記事との検討から、590年の飛鳥寺建設のために伐りだされた材木と考えられる。法興寺(飛鳥寺)から元興寺へ建物が移築された有力な証拠となっている。
聖徳太子二歳の像。鎌倉時代の作。聖徳太子は2歳のとき東に向かって立ち念仏を唱えたという伝説から、こうした像が多く造られた。
禅室と極楽堂の屋根の一部に、行基葺きと呼ばれる方法で葺かれた丸瓦が残されている。
飛鳥から移築された瓦がまだ現役で葺いてある。
法隆寺へ
徒歩で、JR奈良駅にやって来た。
お昼時。
多分この素敵な建物はかつての奈良駅だったのではないか。
今は観光案内所。
この左奥に無機質な作りの駅がある。
そして、電車にのること2、30分で法隆寺駅。下車。
これからもたくさん歩くだろうから、ここは法隆寺までバスを利用。直ぐそこだ。
境内で奈良名物の「梅とろろ饂飩」を食す。梅酢の味が浸みた美味しい饂飩だが少々少し過ぎだな、ん。
ここは、奈良県生駒郡斑鳩町である。
法隆寺
飛鳥時代の姿を現在に伝える、世界最古の木造建築群。
用明天皇が御自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されたが実現を見ないまま崩御。
聖徳太子(用明天皇の皇子)は叔母の推古天皇と推古5年(607年)にご遺願を継いで寺とその本尊「薬師如来」を造った。これが法隆寺(斑鳩寺ーいかるがのてら)。
南大門
室町時代永享10年(1438年)再建。
中門
飛鳥時代の粋を集めたもの。
エンタシスの柱。
左右に立つ金剛力士像(塑像)は奈良時代のもの。
中に入って、五重塔と金堂を仰ぐ。
中まで入って見ましょう。
修学旅行の生徒たちが数校来ていて、その合間をぬっての我が行動となりました!
添乗のガイドさんの説明をところどころ聞きながら。
懐かしい「止利仏師作ですー。」との声が耳に入った。
(大講堂前からのぞむ)
金堂にはご本尊を安置してある。
金銅薬師如来座像(用明天皇のため)ー飛鳥時代、金銅釈迦三尊像(聖徳太子のため)ー飛鳥時代、金銅阿弥陀如来座像(母君穴穂部間人皇后ーあなほべのはしひとこうごう)ー鎌倉時代があり、それらを守護するように樟で造られた最古の四天王像ー白鳳時代が立っている。
この薬師如来座像が止利仏師作ですね。
他に、木造吉祥天立像・毘沙門天立像が安置されている。
天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には天井同様に美しい阿弥陀さまかな?らの壁画があったが、修理中昭和24年に失火で消失し、かすかに残るのみとなってしまった。
五重塔は釈尊の遺骨を奉安するためのもの。大きな卒塔婆なのである。
1階の中には、奈良時代に造られた塑像群がある。
釈尊遺骨(舎利)の分割ー西側、弥勒菩薩の説法場面ー南面、釈尊入滅ー北側、維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩の問答ー東側。
大宝蔵院
平成10年に落成した。
百済観音堂を中心とする。
百済観音像は、飛鳥時代のものとされるが、作者や由来は判明しない。
八頭身のすらりとした美しい観音様である。
その他、夢違観音(白鳳時代)、玉虫厨子(飛鳥時代)、蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)、焼け残った金堂の壁画の一部などなど、1400年に及ぶ法隆寺信仰の遺産であり、我が国の誇る貴重な宝物が安置されている。
橘夫人とは聖徳太子のお妃。
夢殿へ行く途中、たしか、これは聖徳太子の馬屋と書かれていた、かな!?
夢殿
聖徳太子の遺徳を偲んで行信僧都が天平11年(739年)に建てた。
八角円堂。
中央の厨子に聖徳太子等身の秘仏久世観音像(飛鳥時代)を安置。その廻りに聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、行信僧都像(奈良時代)なども安置してある。
聖徳太子孝養像とは、父君用明天皇の看病にお側につききりで、天皇が一口食べられれば太子も一口食べるといった看病をしたという言い伝えの像。
西側からのぞむ。
夢殿をぐるりと廻って拝観する。
校倉造りのように、外側の木材は菱形に並べられている。
中宮寺へ
途中の美しい門構え。
左から、太子殿、本堂、そして表門かな? (境内図によると)
だからこれは斑鳩宮ということ?
中宮寺
聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願により、太子の宮居斑鳩宮に、西の法隆寺と対照的な位置にこの寺を創建した。
法隆寺は僧寺。この寺ははじめから尼寺とされた。
如意輪観世音菩薩(菩薩半か像)はこの寺の金堂にご本尊として、天寿国曼荼羅は講堂の本尊薬師如来像の背面に安置されていた。
寺運衰退し、以来尼門跡斑鳩御所として寺観を整えてきた。
昭和43年、幾多の火災に見舞われたことを鑑み、高松宮妃殿下のご発願により、今日の水に囲まれた本堂の姿になった。
高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮最後の皇女で、高松宮が有栖川宮祭祀を継承、有栖川宮より皇女が門跡としてお勤めになった経緯などからである。
この本堂の中に、如意輪観世音菩薩さまと天寿国曼荼羅帳が安置してある。
観音様の、半分御足を組み、ついた手の指で軽くほほを支えているお姿は余りにもお美しい。
お得意のアルカイックスマイル。
こちらまでこころが和んでくる。
天寿国曼荼羅は、聖徳太子が推古天皇即位30年の年(622年)御年46歳でおなくなり、御妃橘夫人は痛く悲しみ、宮中の采女たちに、太子が往生されている天寿国という理想浄土のありさまを刺繍させたもの。
手洗い場
夢殿入り口にあった。
さすが、鳳凰でできている、ね。
もう3時を廻りました。
欲を出しているときりがありません。
また来ることにいたしましょう。
帰り道、東大門をくぐってずっと歩く途中に見つけた老木。
こちらも飛鳥時代からがんばっていますか!?
南大門を出たところで、名物「柿の葉寿司」を買う。
と、法隆寺行きのバスがきたので乗る。
京都駅、4時20分、新幹線乗り場ホームに上がると、みんながカメラをパチパチ。
何かと思いきや、この電車にみなさん夢中。
私もつられてパチリ。
で、車掌さんに聞いた。これ何の列車?
「ドクター・イエローといって、通信関係の機械を積んでいます。めったにお目にかかれないのですよ。ラッキーでしたね」ですって。
ラッキーで旅を終えられて、よかったよかった。
お終い。
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