琉球王朝の歴史・文化を訪ねて 3日目

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スローライフ日誌

2015年02月06日

<2015年01月24日(土)> 

斎場御嶽(せーふぁーうたき) 

南城市にある。
琉球王国最高の聖地であり礼拝所

最も名高い神女である聞得大君(きこえおおきみ)がこの聖地を掌管した。聞得大君は、国王と王国全土を霊的に守護するとされ、王族の女性が任命された。琉球全土の祝女(ノロ)の頂点にたつ存在。
1470年から1875年、薩摩に敗れるまでの15代まで約400年余りにわたって琉球王府の神事を司った


少し登った木陰から、久高島(くだかじま)が望める。
久高島では、琉球時代に王国の神事が行なわれ、神の島と呼ばれる。
久高島は琉球開闢の祖アマミキヨが天から降りて最初に造った島といわれ、五穀発祥の地とされ、歴代国王が参詣した。


いたるとこにある拝所の小さな線香置台
ガイドさんが、これに乗って写真を撮る若者がいて困ると話していた。


岩の窪みなど、拝所が多い。


根を張ったガジュマロも神聖なもの。


この奥は昔墓地だったようで、霊感の強い場だという。


鍾乳石なので下に伸びていたが、無残にも切られてしまった。


遠くから見ると女人と見える、ともいわれる。天女が降りてきたのかな。
たてにひび割れているところも神秘的と見る。

三庫理(サングーイ)
2つの鍾乳石がぶつかり三角形の空間を作って最高の拝所となっている。



光の具合で反対側からみると紫色が神秘的だ。

 

那覇市市役所県庁前広場。
ずーっと左奥は国際通り。


首里城

14世紀末に、尚巴志の父の頃に中山王として創建されたが、幾多の戦いで炎上、再建を繰り返し、沖縄戦で焼失したが、1992年に復元された。
中国や日本の文化も混合する琉球独特の王城

守礼門
首里城第二の坊門。扁額に「守禮之邦」と書かれている。


園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
王府の行事や祭祀と密着した御嶽(うたき)
初期王朝時代の石工技術を留め、これ自体が独自に世界文化遺産に登録されている。


歓会門
首里城の正門。
中国皇帝の使者「冊封使(さっぷうし)」など訪れる人びとに歓迎の意を込めた。

さらに「瑞泉門」、「漏刻門(水時計となっている)」、「広福門」をくぐる。


ボランティアのガイドさん


岩間に菫。


那覇の街が見渡せる。
伸びる石垣。

そして、奉神門
正殿に入る最後の門。
中央の入り口のみ王や高位の人びとが使う。
現在はみんなが入る。
右側、石垣に囲まれて、首里城御嶽がある。


正殿

南殿 正殿に向って右側。
白木の日本風造りで薩摩の役人たちを接待した。さらに下手は登城してきた人びとの取次所だった。

北殿 左側。
中国風な造りで、冊封使などの歓迎式に使われた。また三司官など高官の努めたところ。ペリー提督の歓迎式にもつかわれ、近年では主要国サミット会場にもなった。


丁度何かの祭礼の様子が再現されていた。ノロ(祝女)たちであろう。


正殿の中へ

奥書院(王が執務の合間に休憩した場所)などを正殿内部から見る。
石垣は琉球石灰岩で作られたため、当初はこのように白いものだった。


1階は王自らの政治や儀式を執り行う場。
御差床(うさすか)。
玉座のこと

2階は、王妃や身分の高い女官が使用した。


これは何でしたかな。


儀式の時の正殿と御庭、人びとの模型。

外へ出る。
石垣のカーブの見事さ。

西のアザナ(展望台)から那覇市をぐるりと見晴るかす。

沖縄は、ちょっと小高い丘に登ると、ぐるりと海が望める!



玉陵(たまうどぅん)

第二尚氏王統の陵墓
1501年、三代王尚真が父一代王尚円の遺骨を改葬するために築かれた。
墓前の庭に同年建てられた玉陵碑があり、この玉陵に葬られるべき王の名が尚真他8名と規定されている。二代王尚宣威や長男、次男の名は記されていない。尚真王の王妃が記したものといわれる。
そして、碑に曰く この書き付けに背くならば、"天に仰ぎ、地に伏して祟るべし" と。
当時の王室内にかなりの勢力争いがあったとみられる。


入り口。


左側が東室
洗骨後の王や王妃の遺骸の安置所。
洗骨は泡盛などで丁寧になされる。


中室
洗骨前の王や王妃の遺骸の安置所。


陵は3つの室に分かれている。
右側の西室には、碑に書かれている王たちの家族が葬られた。


さて、沖縄の歴史・文化が少しわかったところで、今回の琉球王朝の歴史・文化を訪ねる旅もお仕舞い。
お世話になった皆さま方、有り難うございました。
ニフェーデービル!!!

 

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