奄美大島の旅3日間 3日目

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スローライフ日誌

3月3日

今日はひな祭り。幾つになっても好きな日だ。

安政の大獄で幕府から捕縛命令の出されていた西郷隆盛は、薩摩藩の取り計らいで安政6年(1859年)奄美に送られる。6石の扶持付きで。3年間滞在。
記念館が残されている。ツアーでは行かなかったが。
当時の奄美は、特産の砂糖きびが年貢。厳しく取り立てられていて農家では一口たりとて食べられなかった。そんな状況に西郷は同情し手を尽くす。
島妻、つまり愛人・愛加那は二人の子に恵まれる。長男菊次郎正妻イトに引き取られ、後に台湾宜蘭府の初代庁長や京都市長を務める。愛加那は島を一度も出なかった。

さて、待望の大島紬に出会える。今回のツアーに参加した目的はここにある。

龍郷町にある(株)大島紬村、手織りの会社である。
大島紬観光庭園である。大島紬を手織りしている。
大きな庭地である。1万5千坪の敷地。豊かな自然に囲まれている。

製造工程を見学する。
泥田で絹糸泥染めする。

染料となる車輪梅の木の皮

絣締め加工。

捺染め。絹糸に指定の色を染めていく。

機織り。

この工場には5人、自宅に機をもっていて自宅で織る人が10人いるそうだ。
大島紬が高価な理由がわかる。
いくら高価でも紬は紬。普段着、おしゃれ着としてしか着られない。最高のおしゃれを昔の人たちは楽しんだのだ。
ここの値段の2、3倍で東京では売られる。飛行機代を出しても現地に買いにくる人がいるのだ。なるほど。

高倉というこの地方の倉。ハブや野ねずみ等にあらされないよう表面のつるりとした柱に支えられた高い倉。

 

奄美大島酒造(株)にやってきた。
またまた黒糖焼酎の造り酒屋。ここの特徴は奄美の黒糖だけを使用していること。

仕込み

蒸留

ここの試飲では、浜千鳥乃詩ゴールドという原酒を一舐めしてみた。40度。カーときて美味しかった。


昼食は、近くのレストランで奄美郷土料理の鶏飯
鶏を茹でて、その鶏を細かく割き、錦糸卵や椎茸の千切りなどとご飯にのせ、鶏のスープをたっぷりかけて食すもの。

奄美パークに。
ここは以前の飛行場の跡地に作られた。中にいろいろと施設がある

田中一村記念美術館。
明治41年生まれの田中一村は、千葉にゆかりの絵描きで、30歳で千葉に移り住んだ。それも千葉寺である。そこを多くスケッチしている。我が母校はその近くにあり、随分と時代も遡るが、鄙びた風情が懐かしく感じられた。そして、大戦中には工場員として船橋の日本建鐵に働いた。戦闘機でも作っていたのであろうか。
そして、50歳で奄美大島に移住。昭和52年に人知れず69歳で他界している。
ゴーギャンのようだ。

高倉を模した田中一村美術記念館。


かつての管制塔を展望台にした、その展望台から一面を見渡す。

奄美パークを見下ろす。

新しい現在の飛行場に飛行機が入ってきた。
これに乗ってわれわれは帰るのかな。

様々な花や樹木が植えられている。

 

そろそろ、帰途につきます。
奄美大島の印象は、豊かな海山の自然がまだ残っていること。そして、何よりもどこへいっても暖かい心持ちの人々に出会えた有り難さだ。これは多分島の人々のもつこころの大らかさであろう。素晴らしい。

 

雲の上に真っ白の富士山を見つつ、
浦賀海道からか、さあ、もう東京湾です。
船の多さに驚きますね。


お世話になった皆様に感謝でーす。 

(完)

(16.03.09)

 

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