2018年06月29日
日光山の歴史は、天平新護2年(766年)勝道上人により開山されたことに遡る。
伝説によれば、その後空海や円仁らも訪れている。
以来、東照宮、二荒山神社、そして輪王寺を中心として、関東の一大霊山として栄える。
日光は江戸、富士山などから北東(鬼門)にあたり、江戸、富士山などの鬼門を抑える意味もあった。
現在50年振りの大修理中で、本堂(三仏堂)は仮囲いですっぽりと覆われている。覆われている写真は実物大である。
鎌倉時代から神仏習合ですすみ、三山(男体山・女峰山・太郎山)と三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)を同一視して祀っていた。
広大な敷地である。
江戸時代に入り、家康が東照大権現として祀られると、法親王が住し、門跡寺院となる。
明治の神仏分離で現在の輪王寺となる。
本堂(三仏堂)
内部に上がりお参り出来るようになっている。三仏を拝観し、ぐるりと回覧できる。
家庭をも鬼門(北東)から守る魔除けのご利益がある寺。
時間の都合でここでお仕舞。次は、東照宮へ。
日光東照宮は、源頼朝の開山造営に遡る。そして、東国の宗教的権威となっていった。
家康の死後、家康の遺骨は久能山に納めるられたが、大権現として神格化し、日光東照宮に祀られた。
寛永13年、三代将軍家光は寛永の大造替を行い、それまでの質素な建物を豪華絢爛たるものと建て替えた。
その建造物は国宝8棟、重要文化財34棟にものぼる。それらに施された彫刻は夥しい数。
徳川家の威勢を今日目の当たりにできる。
この度、新しく色彩を元の荘厳さに塗り替えた。思ったよりも派手ではなかった。私は3度目の拝礼。確か中学生の修学旅行、と20年以上前知人たちと、そして、今回。確かに20年前は色彩も剥げかかっているものもあり、地味だった記憶が残る。
参道
石鳥居
帽子をとり、一礼して入る。神社詣でも大分板についてきた。
五重塔
屋根は、積もった雪が下の屋根に落ち潰さないように、ほぼ同じ広さである。
上神庫
例祭などで使用する道具が収められている。
屋根の下施されている象の彫刻。象を見たことのない彫刻士は聞き伝えで彫った。耳は大きな穴が開いていて可愛いいな。
神厩舎
猿の彫刻。8舞ある。2枚目の三猿が有名。見猿・聞か猿・言わ猿。8枚で人間の一生を例えているとか。2枚目はまだ幼児期である。
陽明門
うだるような暑さ!!
後ろ側。
入って左側の柱は、逆さに模様が彫ってある逆柱。満点では怖いので1点だけ欠陥を作った。
眠り猫
左甚五郎作。眠っているのではなく、敵が来たら直ぐとびかかれる姿勢だという説も。
東回廊の家康が祀られている奥宮の参道入口の蟇股(かえるまた)に彫られている。
薬師堂
ここの天井に鳴き龍がいる。
真下で手を叩くと鳴くと言われたが、現在では係りのひとが拍子木を叩いて見せて、その場所と他の場所とを比較してくれる。
境内内側から。
石鳥居を出て一礼して帰る。
修学旅行の小学生たちの団体の多い事。人、人、人だった。
子供たちはこの暑さの中、にほんの歴史の何を感じたか。
楼門
神門
茅の輪を8の字のように潜るとご利益がある。
拝殿
大鳥居
参道階段の脇にある大きな宿り木。
二荒山神社の大鳥居の左脇は、家光廟大猷院になる。ここは輪王寺の敷地。
東照宮も輪王寺も二荒山神社も、隣り合わさっているのだ。
大猷院(だいゆういん)は、家光を墓があるところ。東照宮よりも質素にとつとめている。が、華やかだ。
仁王門で仁王様が番。これより上へ上へと階段を上る。天上界に上る印象。
。
二天門
大猷院の額。大猷院とは家光の法号。
夜叉門
本殿を望む。
本殿。八棟造りで、日光最古の建物。
家康の東照宮より質素にと作られた。
回って、横にある皇嘉門、別名竜宮門。
この先に家光の墓がある。
戻る。
夜叉門を振り返る。
慈眼堂。
二天門を見下ろす。
多くの大名たちから寄進された石灯籠。
この階段の手すりは、一枚の石で作られていて、崩れ倒れることはない!
樹齢400年から800年もの神杉に包まれている日光山!!!
だから、線香の産地でもある。
天井に龍が描かれている重要文化財の手洗い。
さて、すべて無事観収めて帰途に。
風鈴の橋。
神橋。
素晴らしい日本の歴史に触れることができました。お世話になった皆様に感謝します。
[完]
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