悦子の談話室

友人からの感動のメール

     
 

友人からの返信メールです。(05.09.03) 

 掲示板を読ませてもらいました。

 8月31日はマレーシアは独立記念日の祝日でした。けれど 、日本もシンガポールもふつうのウィークデーでした。

 この日、9年半前の娘の大学受験の発表、合否の連絡を携帯電話を握 りしめて待っていたときの心境と同じでした。昼すぎから、パソコンの前で、じっとメールを待ちつづけました。日本時間の午後5時ちょっと前、待ちきれずに講道館に電話を入れました。「審議は午後4時にはじまって、まだ審議がつづいている」と言われました。その直後に、シンガポールから東京に帰った指導者の一人からメールが入り、「まだ、わからないのか?」という催促がありました。日本の6時ごろ、講道館国際部からメールが入りました.「初段が認可された」こと、そして「赤尾祐介君(これからは本名です。)はよく頑張りました。ご両親や関係者の皆さんに心からおめでとう」という文が送られて来ました。

 このメールを添付して、合格の通知を主要な関係者に送りました。5分も待たずに、祐介君に初段挑戦を勧めた今泉先生からよろこびのメールがはいりました。そして、先ほどの催促メールの先生からも。つまり、二人とも、会社でメールが入るのを待ちつづけていたんです.仕事を忘れて。みんな、受験生の親の心境だったのでしょう。

 わたしは昇段審査の試験官でしたし、講道館への推薦書を書いたのもわたしです。わたしが心配することはないのです。そして、講道館ではわたしが書いた祐介君の実名と写真の入った記事を、全日本柔道連盟のホームページの委員会活動(柔道ルネッサンス)に掲載し、講道館の月刊誌『柔道』、日本武道館の月刊誌『武道』、ベースボールマガジン社の月刊誌『近代柔道』にも掲載してくれました。これだけ、出てしまったら、今更匿名でもないでしょう。

 講道館にとっても知的障害者である赤尾祐介君が初段に挑戦してきたというのは衝撃的なことだったのでしょう。そして、知的障害者に初段に相当する実力があると認めるのは画期的な出来事だったのでしょう。(少数の知的障害者が柔道をしていたということは承知しているが、彼らが初段を取得したかどうかについてはわからない。その理由は、申請書、推薦書には、盲人とかほかに障害があるとか、そうしたことを書きこむ項目がないからです。)山下泰裕先生などが深い関心を持ってくれました。

 これだけの既成事実があるんだから、審議会で拒否されることは考えられないと思いつつも不安がありました。万一、わたしが推薦書類の書き方を間違えていたら、などと余計なことも考えてしまいました。

 お父さんは会議中だったらしく連絡がなく、わたしから電話を入れました。その夜、家族でお祝いをすると言っていました。

 マレーシアのクアラルンプールでビジネスの傍ら柔道を教えているわたしや、シンガポールで同じように教えている先生たちには、障害があろうとなかろうと気にならないんだと思いま す。マレー人、中国人、インド人、日本人、それらの混血の子達、イギリス人、フランス人、オーストラリア人、ロシア人、ウズベキスタン人、韓国人、モンゴル人等々、わたしたちの道場は人種の坩堝のように様々な人々が出たり入ったりしています。わたしたち指導者も、柔道を学んでいる少年少女、成人のメンバーも、それぞれに独特の民族性があり、強烈な個性があり、いちいち気にすることはありません。

 だれもが、障害者もそうした個性のひとつだと感じているのだと思います。わたしたちの道場にも自閉症の兄弟がきていました。多少の教えにくさはあっても、あせらずに、のんびり時間をかけてやっています。言葉が通じないロシア人の子供にもてこずっていますが、上手に技をかけたときに「ハラショー!」と叫んでやるとおおよろこびしてくれます。子供同士でも同じような感覚だと思います。祐介君が、海外の、人種の坩堝のなかで柔道をはじめたというのはラッキーだったのかな?と感じています。

 そして、(試合では別ですが)柔道は、互いに相手をつかむことからはじまります。だから、盲人でも聾唖者でも健常者と ほとんど対等に稽古をすることができます。そうした特性をも つスポーツだと考えます。だから、祐介君にとっても、道のり は遠かったけれど、まず、最初の目標に到達できたのでしょう 。

 たぶん、9月中旬には初段の免状がシンガポールに届くと思います。授与式を計画しています。

 以上、わたしが感じたことなどを書き記しました。この後は、すべて実名で大丈夫です。ありがとうございました。

 

[掲示板に寄せられた声]

Y君おめでとう!!  投稿者: aine389 投稿日:2005/09/01(Thu) 20:03 No.268

何度も何度も鳥肌が立った。 近頃になく感動を味わいました。 Y君とご家族の皆さん、協力された方々の歓び、感動が伝わって着ました。 本当におめでとうございます。 私事ですが以前幼稚園で沢山の子供達とかかわる仕事をしていました。 私は仕事をする上でクラスに最低一人は障害を持つ子供さんに仲間に入って頂く方針でした。 幼い時から自然に仲間に入り相互理解を深めて欲しかったから。 一言で障害といっても様々な種類が有った(ここでは省きます)。 職場や日常の中で10余名のダウン症の子供達と出会った。 同じダウン症でも立って歩けない子から大分軽い症状の子いろいろでした。 私が感じた特徴としては1.性格が穏やかで優しい。2.非常に素直である。3.身体が大変柔らかい4.争いを好まない。瞬発力が弱いetc一寸考えただけでもとても格闘に興味を持ち頑張れる要素が見当たらない。以前読ませて頂いた時でさえY君奇跡との戦いだと思い密かに応援していた。 まさか黒帯を締めるまでになるなんて。 何と凛々しいこと。 私の周りにも耳の聞こえない人も沢山居る。 何時いつの間にか「自分がしてあげられることは何だろう」と考えるのが現状。 しかし実際はその人達から優しさや活力や元気を頂くことが殆どである。 何時も何時も感謝の日々・・・・ Y君の偉業はどれだけ周りの人々に影響力があるか計り知れない物がある。 偉業というのはこんな時にある言葉に思える。 きっとY君は今に満足する事無く、既に上を見つめているかもしれない。 マレーシアの渡邉様本当に良いお話有難うございました。 これからも応援し続けます。 悦子さんこんなお話知りえたこと感謝です。美夜子


知人から喜びの報告メールが届いた。(05.08.31)

Y君は初段に見事合格したとのこと。黒帯が締められる。

知的障害者の合格は講道館はじめてであろうと。

 

マレーシア在住の、高校時代の友人からメールが届いた。

講道館と全日本柔道連盟からの依頼で書いた文だという。

余りにも感動的ないい話しだったので、私信のメールに留めておくのがもったいないので、本人の了解を得て、ここに転載します。

(05.07.25)

柔道が Y君の世界を変えた ダウン症の青年が初段に挑戦

 

Y君という19歳の青年がいる。お父さんの仕事の関係で8歳のとき、11年前にシンガポールにやってきた。

Y君は知的障害や心疾患などの障害をもつダウン症の青年だ。恥ずかしがりやだが優しく穏やかで周りの人たちを自然と和ませてくれるような人柄だ。両親はそんなY君が健常児とともに学び普通に生活してほしいと願っていた。

 日本では幼稚園や保育園、小学校、中学校までふつうの教育機関に通っている子も多い。その後は個々の障害の程度や性格などに合わせて養護学校に通ったりする。シンガポールにやってきて、最初に躓いたのが学校の問題だった。ほとんどの日本人の子供たちの行く日本人学校では「(学校に)障害児に対応できる教員も設備もないので、すぐには入れない」、「学校として特別なことは何もしません」と言われた。それでも入学させてほしいと言うと、「けがをしても学校側では責任をもちませんよ」とまで言われたという。だがその後、障害をもつ子供のお母さん方の頑張りと、新たに赴任された理解ある先生方の支援により特別障害児学級ができたので、小中学部を通じて Y君はそこに在籍した。また、サッカーなどのスポーツの日本人のグループに入ろうとすると、「今までそういう子を受け入れた事がないので……」とか、「怪我をしたら困る。」等の理由を言われ断れたこともあったという。

  Y君のお父さん(三段)は学生時代に柔道に打ちこんでいた。Y君が11歳のときに、お父さんはY君をシンガポール柔道連盟の道場につれていった。道場はシンガポール人や日本人だけでなく、イタリア人もいればイラン人もいる国際色が豊かな柔道クラブだ。

 指導にあたっている先生たちも、練習にくる子供も大人の選手たちも、ふつうの子供と何の変わりもなく受けいれてくれた。(指導者として道場に来られた順に、)池井宗之(ロサンジェルス在住。現三段)、岡本美臣(帰国。現六段)、宮河憲和(帰国・三段)、加藤浩伸(帰国・現五段)、長谷部良夫 (帰国・四段)、相川進一(帰国・三段)、藤村 小弥太(帰国・現四段)、今泉 一隆(帰国・四段)、高橋 義晴(三段)、勝山 泰宏(二段)、そして,イタリア人のパブリッシオ(二段)やイラン人柔道家のコダダディなどの先生方が、今までY君やほかの子供達を指導してきた。ともすれば気分がのらないで自分のなかに閉じこもってしまうことのあるY君の肩を抱いて「柔道をやろう」,「一緒に練習しよう」と必死に励ますお父さんと一緒に先生方が声をかけ畳の上に導いてきた。道場の全員がやさしさとスキンシップでY君と接した。そして、Y君は柔道を通して、一人の人間として外の世界に顔を向けるようになった。

 

 畳の上に上がると、準備体操、補強運動,受身、打ち込み、乱取と、 Y君はほかの子供たちと一緒に練習した。先生たちがほかの子供に対するのと同じように、いい技をかけたときには「よーし。いい技だ」とほめると、うれしそうにしてどんどん技をかけてきた。前回り受身が苦手でなかなかうまくならなかった。中学生になって、歳月がかかったけれどできるようになった。それからは,自分から積極的に前回り受身を繰り返し練習するようになった。

 マレーシアのクアラルンプールにあるバングサ柔道クラブの子供たちとの年に一度の交流試合にも毎年参加するようになった。攻めが遅い Y君は、試合ではなかなか勝つことができなかった。2004年,マレーシアの古都マラッカで交流試合があった。審判の「はじめ」の声とともにY君は相手に向かっていった。そして組むなり大外刈をかけた。「一本!」。これぞ大外刈という見事な技での一本勝ちだった。投げたY君も,投げられた選手も、審判をしていたわたしも、一瞬おどろいた。観戦していた坂元英郎先生(八段)が大きくうなづいた。両親の目が潤んだ。

 「健常児に勝った」。この一本勝ちで大きな自信を得た Y君は大きく成長した。柔道にもそれまで以上に積極的に取り組むようになった。講道館の先生がその年の12月に昇段審査のためシンガポールに来てくれることがきまって、今泉先生がY君に初段の審査を受けてみるように勧めた。だが、そんな夢のようなことはと両親は最初固辞した。だが、今泉先生は「自分も一緒に教えるから頑張ってみましょう」と繰り返し言って、「挑戦することが大切なのだ」と皆でY君を励ます日々がはじまった。

 いよいよ当日、講道館国際部の藤田真郎先生と道場指導部の向井幹博先生、マレーシアから坂元英郎先生 (八段)とわたし渡邉明彦(五段)が立会いにきて昇段審査が行われた。受身はなんとかこなした。投の形ではパブリッシオ先生が受になった。投の形は日本の初段の審査でも何組かに一組は順番をまちがえたり,できなかったりする。ミスらしいミスをせずに形の審査を終えた。向井先生がY君と乱取をした。Y君は得意技の大外落と大外刈、背負投をとりまぜながら積極的に攻めつづけた。藤田先生も坂元先生も納得した表情でうなづいていた。

 審査のあと、藤田先生から審査結果の発表があった。 Y君は六ヶ月後に坂元先生が再審査をし、柔道の習熟度が向上し、初段にふさわしい実力があると認められれば初段に推薦するという結果だった。「半年の間に今まで以上に柔道をすきになってほしい。柔道のすばらしさを体感してほしい。そうすれば、もっともっと形も上手になるし、技にも磨きがかかる。誰が見ても初段にふさわしい実力の持ち主になってほしい」という藤田先生と向井先生の思いが伝わってきた。

 藤田先生の報告で Y君の挑戦を知った、前人未到の203連勝や全日本選手権大会9連覇、ロス五輪で金メダルなどの偉業をなしとげた山下泰裕先生とアテネ五輪柔道女子70kg級の金メダリストの上野雅恵選手がY君に激励の色紙を贈ってくださった。最高の柔道家の二人が関心をもってくれた。激励してくれた。Y君にとってもご両親にとっても夢のような出来事だった。 

 不可能だと思っていたことが、手が届くかもしれないところまで近づいてきた。もう一歩でも,二歩でも前に行って、黒帯をしめてみたい。ふたたび Y君の挑戦がはじまった。今泉先生,お父さんを先頭にすべての先生、一緒に練習する仲間たちが協力した。お母さんがY君を支えた。そして、弟のS君も柔道着を着て一緒に練習した。

 

 2005年7月16日、シンガポール柔道連盟の道場に、再審査のためにマレーシアから坂元英郎先生とわたしが訪れ、パルガ・シン・シンガポール柔道連盟会長がわたしたちふたりを迎えた。この日の再審査は二名,一人はシンガポール人のウィさん,もう一人がY君だった。二人とも緊張の極にあって、がちがちに固くなっているのがよくわかった。ウィさんは肩に力が入りすぎてややぎこちなかったので、わたしから「リラックス.リラックス」と声をかけた。ウィさんも半年の間にずいぶん進歩をしていた。坂元先生から少し技術的なアドバイスをして合格になった。

 Y君は受身の前に自分の中に閉じこもってしまいそうだった。わたしが「ほら、こうやって、いっしょにやろう」と言って前回り受身を見せたら、前回り受身をはじめた。まあまあ。つぎに後ろ受身を指示すると、ひじょうにうまくできた。わたしが「うまいじゃないか」と声をかけた。たしかにウィさんよりもうまい。ゆとりができたのか、横受身も同じくウィさんより上手にできた。そして、この日の投の形の受はお父さん。さすがに親子だけあって、取のY君と受のお父さんの息がぴったり合って,流れるように演武した。そして、技の習熟度のテスト、坂元先生と乱取。よしよし。坂元先生がうなづいた。

 坂元先生とわたしの推薦、パルガ・シン会長が承認して二人は初段の再審査に合格した。このあと、推薦書類が講道館に届けられ、審査会が認めてくれれば初段,黒帯を締めることが許される。

 

 オリンピック競技である柔道は世界中の人々に愛されるスポーツとなっている。視覚に障害のある人や聴覚に障害のある人々もできるスポーツとして障害者のスポーツの祭典であるパラリンピックの競技種目になっている。わたしたち健常者と一緒に柔道をたのしみ、ともに汗をながすことができる。それだけではない。知的障害のある人々も同じようにできる。

 

 Y君はわたしたちにいろいろなことを教えてくれた。わたしたちは、勇気をもって目標に向かっていくことが大きなエネルギーになることを知った。もっと多くの人たち、もっともっと多くの障害のある人たちも柔道というスポーツを愛する仲間になってもらえるということを知った。そして、柔道はY君に「自分はふつうの人たちと同じ世界に住んでいる。頑張れば,ふつうの人たちに勝てる。黒帯にもなれる」という勇気を与えた。

 

 知的障害をもつ子供の親の思いは様々と思われる。 Y君の両親はこんなことを語ってくれた。「わたしたち知的障害をもつ子の親は(子供に)そんなに多くを望んでいないのではないでしょうか。Yの場合は生死の境を乗り越えよくここまで大きくなってくれた。そのことだけで本当にうれしいのです。そんなYが健常児の中に加わり柔道をし、さらに大きな目標をもち共に努力していく先生や仲間を得ることができました。わたしたちだけではとても与えられない陽光の当る場所に引き上げていただきました。親はただ知的障害がある子供が不憫であったり、愛しさだけで強く守りすぎてしまったりとなかなか新たな挑戦に向かえません。それは子供を誰よりも近くで見ているために、その子の能力の限界を知ったつもりになり、これ以上のことを望むのは可愛そうだというような思いかも知れません。小学生の頃まではYもありとあらゆる厳しいダウン症の早期療育に取り組み、健常児に少しでも近づくよう努力しました。でも健常児とは決定的な違いがあることにある時気ずき、ならば、この子らしく優しく穏やかな日々をともにすごせればよいと思うようになりました。柔道もでんぐり返しができるようになるかなとか、少しでも上手に転ぶことができるようになってくれればよいと願ってはじめました。それが、この八年という月日の中で少しずつ成長していく彼がいたのです。" 頑張れば Y君はきっとできる "と今泉先生は言って下さいました。そして初段に挑戦という大きい目標をわたしたちに下さり、あの早期療育プログラムを止めた時以来の困難な目標に向かい家族一同 Yの応援団としての日々が始まりました。柔道の稽古を中断していた弟のSも必死にYの練習相手をしてくれました。

   柔道を通じての素晴らしい出会いが、 Yだけでなく家族の私達にも生きがいを与えてくれたのです。

 知的障害を持つ子供の親は、いつも一歩引いて、我が子がその社会の中に受け入れられているか、祈るような思いで見つめています。健常者と知的障害者が "共に生きる "ということは本当はとても難しいことだと思います。お互いを知る機会はほとんどないのですから。ましてや容赦のないスポーツの世界ではなおさらでしょう。でも一緒にやろうという思いをもってくださる方がいれば、それも決して無理ではないのだということを、わたしたちは Yを通して学びました。勝ち負けだけではないたのしみ方、取り組み方があるのです。柔道は心を育て家族の絆を深めてくれました。今はこれまで支えて下さった皆様に感謝の気持ちで一杯です」

 

 どんな人であっても同じように,柔道をやりたいと心から思う人々を受け入れて,一緒に汗を流していきたい。柔道をたのしんでいきたい。 Y君はわたしたちにそんな当たり前のことだけど、わたしたちが忘れてしまいがちのことを思い出させてくれた。

 柔道はすばらしい。

文:在マレーシア  渡邉明彦

 この文は,講道館発行の月刊誌『柔道』三月号に講道館国際部の藤田真郎先生が書かれた「バングラディシュ・シンガポール巡回指導報告」の記事の続編です。『柔道』三月号で「今回の受験生の中に障害者の日本人青年もいた」と書かれているのが Y君です。ご両親などの了解を得て書かせていただきました。この文を読んで、一人でも多くの障害のある皆さんが柔道をたのしんでもらいたい、柔道によって生きるよろこびを得てもらいたいと、心から願っています。

    

 
     

[悦子の談話室へ]

 

NewChibaProject