直ぐ左隣が王宮広場。
目の前をトレンサップ川が流れている。
その向こう奥、右派端で合流しているのは、メコン川。
まことにアジアチック風景である。
川岸には、夕方から夜にかけて、大勢の人出。
多分、涼をとりに涼みにくるのであろう。
王宮の中に入る。
エントランスには、たくさんの果物、花の木が植えられている。
とにかく、お花や果物が豊か!!
ジャックフルーツ
サラソージュの木。
お釈迦様が生まれた木。
涅槃の木。
朝咲いて、夕に散る。
ジャクランダー。
1月に咲き、2月満開、3月に散る。
まだ少し残っていた。
王宮本殿。
4月がカンボジアのお正月。
その準備のために、中には入れず。
舞殿。
屋根は蛇で縁取られている。
瓦は鱗を表す。
3本の旗。
国旗。
国の色は紺。
4本の川も表している。
尖塔の上には四面の顔がある。
4つの川を表している。
トレンサップ川、上下メコン川、バザック川、かな?
カンボジアにとって川は全ての源である。
ナポレオンVの贈り物の建物。
1884年〜1953年、フランス保護領であった。
プルメリアの花が咲き誇っている。
王家の紋章
回廊にカンボジアの歴史が描かれている。
王宮の外に出る。
花の大木があちこちにある。
王宮の隣というか、続きのようだったが、中が全てシルバーでエメラルドの原石で作られた仏像がご本尊でおかれていたという記憶が蘇ってきた。(07.09.09)
民族衣装、王族の衣装、調度品、アンコールの遺跡群で貴重なものを展示、保護している。
入り口
写真の撮影は中庭しか許されていない。
街中のビルの脇に置かれているプロパンガスの群れ。
市街の燃料はプロパンガス。
電気はほとんどがガソリン(ジーゼル)の自家発電。
国全体では、15%の人しか電気を使っていないとのこと。
宿泊ホテルでも、しょっちゅう停電していた。
水道が25%とか。
昼食のレストラン
プノンペンの大通り。
ほとんど信号機がない。
……………
ボルボト恐怖虐殺政権の時代は5年間続いた。
700万人の国民人口が400万人にまで減ったといわれる。
1953年 カンボジア王国としてフランスから独立。
1970年 反中親米派のシアヌーク政権打倒。王制廃止。
クメール共和国樹立。
親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦。
1975年 クメール・ルージュが内戦勝利。民主カンボジア政権樹立。
同政権下で大量自国民虐殺。
1979年 ベトナム軍進攻でクメール・ルージュ敗走。
(以下の続く悲惨な歴史は、5日目に記す)
1975年、クメール・ルージュ(首領がポルポト)が勝利宣言をする。
そして3時間後に米軍が爆弾を落とすと脅し、プノンペンやその他の都市から市民を強制非難させ、
以降、親子、家族を別々にして、強制労働、農業をさせる。
都市部はポルホト派(クメール・ルージュ)のみとなる。
学校は全て破壊か拷問所とされた。
拷問所は全国で167ヶ所あった。
この拷問所は、元高校。プノンベン市内にある。大きい。
周りは有刺鉄線が幾重にも巻かれている。
外観は現在は静寂そのものである。
ここでの犠牲者の墓
教室は小さく区切られ、使われた拷問具がそのまま残されている。
決して銃は使わない。
拷問し、何かを言わせ、処刑場に送る。
この写真は、開放のため進軍してきたベトナム軍に殺された人。
校庭の体育具は、拷問具として使われた。
別の校舎では、虐殺された人々の写真が掲げられていた。
知識人、金持ちは全て殺された。
拷問所に入れられた人は、3人を除いて、全てキリングフィールドで殺された。
3人とは、電気技師と絵描き(上の絵などがそうかしら)ともう一人。
中央で説明をしてくれているのは、われわれの旅のガイド、ウッディさん。38歳。2児の親。
彼は、ポルポト時代は小学生だった。
記憶を語り継ごうと、真剣に話してくれた。
親と引き離され、弟たちの面倒をみて、つまり親が何の職業か話さないようにさせ、重労働をして、
生きのびたという。
女性の殺害
強制結婚の絵
男と女を並べ、次々に結婚させる。
その夜、結婚を拒んだ女性は翌日男性にそう報告され、殺されていった。
子供たちも
独房。
教室を小さく区切っている。
外から鍵がかけられいてた。
母親子がら乳飲み子が引き離される。
キリングフィールド(処刑場)で発見された遺骨の山の写真。
…………
拷問所跡を外に出ると、今は目の前に鮮やかな花が咲き乱れている。
郊外への道すがら。
……………
プノンペン郊外の処刑場跡
処刑場は、全国に343ヶ所あったといわれる。
入り口
花の後ろに慰霊塔が建てられていた。
この中に、ここで見つかった8985体の頭蓋骨が安置されている。(合掌)
最大の穴。
自然に埋もれてきているが、当初はもっと深く、ここで450体の頭蓋骨が発見された。
いまだに、穴の外の原っぱから、骨や歯が出てくる。
衣類の切れ端も。
出てきた骨を集めて脇に置いてある。
KILLING TREE
子供はこの木に叩きつけられて殺された。
そして、傍の穴に捨てられた。
ここでは86の穴が見つかっているといわれる。
悲嘆にくれる、スタディーツアーに同行してくれた難民を助ける会の日本スタッフの
松元理恵さん。
慰霊塔に安置された遺骨の数々。(8985体)
ただただ、合掌するのみ。
狂ってしまった社会の、同胞を無差別に惨殺する、想像を絶する狂気に、身が凍る思いがした。
ほんの30年前の、同じアジアの中での出来事である。
…………………
難民を助ける会のカンボジア事務所駐在加藤美千代さんから、
カンボジアの地雷・障害者問題について説明を受ける。
地雷とは
「地中や地表に設置され、人や車が近づいたり触れたりすると爆発する、殺すのではなく、
傷つける怪我をさせるためにつくられたもの」
対人地雷は360種類もあり、小型で安価(300円くらいで出来る)なため、カンボジアでは
一般市民による手製の地雷まである。
カンボジアが最大の地雷汚染国の一つである理由
ベトナム戦争の余波、内戦、ベトナム軍進攻との戦いなど、アメリカ軍、ベトナム軍、自国軍などが
しいたため。
現在なお、カンボジアの人々の5割りは、地雷被害が予想されている。
1日に800人が被害にあっている。
カンボジアの障害者の実情
人口1300万人中およそ16万人が障害者。内11%が地雷・不発弾被害。
カンボジアでは、障害者への差別が激しく、身内でも捨てられたり、家に閉じ込められ
たりしている。
障害者支援・救済は
社会福祉省があるが、NGOが主体となっておこなっている。
キエンクリエン国立援護支援センターには、5カ国のNGOが支援のセンターを
開設運営している。
日本の「難民を助ける会」の支援センターもその一つ。
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