『知的な聴き方』 外山滋比古 だいわ文庫 680円+税
94歳の著者、相変わらず幅広い考察力が素晴らしい。なるほどと、納得する。
日本語について、「読む」と「書く」が偏向して教育された不幸を指摘する。明治維新で政治革命は果たしたひとたちが、文化を考えるゆとりと教養がなかった。外国ものをまねた。国語を外国語にしようとまでしなかったのは幸いであった、と。
明治前は、お国なまりの言葉で、"言霊の幸ふ国(ことだまのさきわうくに)"=言語の呪力によって幸福がもたらされている国。日本の美称=であった。
読む、書くは知識がなければならない。生まれて言葉を聞いて覚え話していく。学校へ行って文字を教え込まれる。知識偏重の弊害が至る所に。
書いたものは思ったものをかなり整理粉飾していて嘘がある。なるほどな、…。
「聴く話す」は、思考を深める。つまり、一人で書いているよりは皆と話し聴いているといろいろと考えが広がると。
ここで「聞く」ではないことがミソだ。聴くことに慣れていないと、オレオレ詐欺にやられると。
平易に書かれているが、大いに考えさせられる。
日本語は第一人称と第二人称がはっきりしない。従って、現在では誰に対しても丁寧語や敬語を使って無難としたりハイソぶったりしている。テレビのレポーターが一般の通行人の様子を表すのに丁寧語を使っているのはどうもいただけない。レポーターもディレクターも多分若くてそんなの知らないのだろうが。
その丁寧語、敬語、日本語の特徴とされるが、外国語だって言葉としてはなくとも丁寧な表現の仕方はある。私の余談だが、海外出張して、その資料をいただけますか、というつもりなのだが、give me それ、と言っていると、それをくれ、とならず者のいうことになる。そこを、would you please give それ、などと言えば何とか失礼にはならないはずだ。
言葉を教える先生もいないのに、小学校で英語教育が取り入れられたのは、後世の笑いもの、と。
パソコンやブログが普及して、益々言葉を聴き、話す機会がなくなっていく。
そんな中、日本語を大切に考え直したくなった。
我らが安倍首相は3選を果たしたそうだが、彼など「聴く」耳持たずの筆頭だろうな。
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