『桃紅百年』 篠田桃紅 世界文化社 1700円+税
篠田桃紅 現役の墨の抽象芸術家。現在100歳。
66歳から99歳までのエッセイを選りすぐって載せている。
希有な彼女の心の有り様に、こちらの心持ちをすり寄せられるようのなそんな気がする。
66歳の頃の力強いエッセイと、99歳の時のひょうひょうとしたエッセイとでは、その趣きは自ずと違う。
女一人で組織に頼らず、芸術という確かな評価基準のあってないような世界に、国際的にうってでる、その芯の強さは半端ではなかろう。
"心にあるもの、心のかたち、それを描いてみても、心のかたちと違う。
心の中のものにはかなわない。
想像と実像の間にはたいへんな距離がある。"
ずっーと和服で通しているその感性の美しさ。ただ布を纏っていたい、筒状に定められたものに身体を通すのは嫌い。
"十月というと秋袷(あきあわせ)ということばを思い出す。
秋袷、文字通り秋に着る袷のきもののことだが、春袷とか冬袷とかいうことは特にいわないのは、夏の単衣(ひとえ)から袷になるから秋袷で、冬、春はその延長ということになる。
だから、母などは初袷、などとも言っていた。
「初袷はふっくらと」とよく言われたが、夏の間に洗い張りして仕立て直ししたばかりふだん着のことである。
まだ素足でいる家居(いえい)で、ふと足の甲に、柔らかな裾廻しのきれを感じたりすると、昔者の私などは「秋……」と感じたりするのだ。"
古い古い象形文字に魅せられる。
"ひとはひとりでは生きられない。お互いに支え合って生きるもの。その証拠に「人」という文字、二本の線が、お互いに支え合っている。こういうお説教を読んだりするたびに私はとまどう。
もっともらしいがどこかひっかかる。そこで古い古い甲骨文字の拓本を引っぱり出す。
古代のひと、という字は、ひとが一人立っているかたちである。
手を少し前に出したひとは、なにをしようとしているのか、何かはじめる感じで、終わったかたちではないように見える。
静、にして、動、を含んでいるところがすごい。
これはすごい抽象表現だ。"
みちのくの東日本大震災の被災者のひとびとの表情をみて
"
上野駅で、着いた列車から降りてくる人々の列に出逢ったりすることが、以前にも時々あって、その度に「東北のヒトってきれい……」と、思っていた。
こんな大非常時に、きれいなどとたわけたことを言ってる場合じゃないでしよう、と叱られそうだが、しょうじき、TVに映る人々、
この受難の老若男女の方々が、実に美しく、私には思われた。
あの方々は、非常な恐怖をくぐり抜け、ふと、ひととき我に還り、
平和であった過去の生と、断絶させられ、別の生に入らざるを得なくさせられた。
何か今までとは別の世界、別のこの世、に出逢っていられるのではないか、と。
私はふと、そんな思いを抱いた。
あの時のあの人たちの表情は、この世の日常には無かった表情、
かなしみも、よろこびも、通り去った夢、とすることさえむなしい、と悟ったヒトの表情、
とでも言わば言うことしかない……そういう、つまりこの世で今まで見るみることがなかった、ヒトの表情ーー"
抽象芸術家の感性の鋭いこころを垣間見たおもいがする。
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