5日目

<インドの旅>

アグラにて

タージ・マハール

とにかく一度観たかった憧れのタージ・マハール!
じっくりと鑑賞した。

1631年から22年間を費やして、当時隆盛を誇ったムガール帝国第5代王シャー・ジャーハンが、戦場にまで伴った最愛の妻マハルのために、城からいつも眺められる場所に造った大理石の廟

正門への沿道。
わくわくする。

正門


正門入り口。


正門前の広場。
正門の対面にある入り口。


正門を背に、ぱちり。
前日買ったブルーのインドシルクのスカーフが、とても色鮮やかだ。


いよいよ門を潜って入場。
世界各国からの観光客でごった返している。

まばゆいばかりの白亜の廟


乾季のせいか、花作りは上手でない!?

外壁はきれいな彫刻が施されている。

靴の上からカバーを履いて廟に上がる。

ぐるっとまわって、正面右側の外廊から観る。


後のテラスから、王の居城アグラ城が見える。

側を流れるのはヤムナー川
この川沿いに遺跡が点在している。
ヤムナー川はデリーをも流れている

正面左側になる。
四方何処から見ても同じに見える造りになっている。


正面から、入ってきた正門を眺める。

天国を称えるコーランが刻まれている。
きれいな大理石の壁に刻まれた繊細できれいな彫刻。
色彩は、ルビー、ラピスラズリー、オニキスなどの宝石が刻み込まれている!


小さな縞リスが多くいて、しゅるしゅる走っていてかわいいこと。

さて、タージ・マハルとはお別れ。

 


アグラ城

1565年から10年をかけてムガール帝国の基礎を築いた代三代帝アクバル帝の建てた赤砂岩の城

ムガール帝国は、1526年成立の強大なイスラム王朝
イギリスに植民地化されて滅びる。

インド北部各地のヒンドゥー教徒王(マハラジャ)を征服し、懐柔策として王の姫らを娶っていった。
中でも、三代皇帝アクバル帝は、月2回は結婚したといわれ、328名もの妻を娶ったとも言われる。
アクバル帝は読み書きはできなかったが、書記と、400人いたお抱え画家に毎日日記をかかせた。

その子ジャハーンギル帝、孫のシャー・ジャハーン帝と3代の帝が居城として使った。

イスラムとヒンドゥーの融合したムガール建築ができあがった。

城内には城だけでなくバザール、モスク、使用人の住宅などあった。

現在はここの80%が軍用地となっている。

アマル・シン門(南門)
   観光客の入り口。
   かなり頑丈の風体。

入って長い坂道のエントランスは、敵が侵入した時に上から障害物を転がり落とすために、階段にはなっていない。

ジャーハンギル宮殿の入り口

帝の私室

帝の見晴らし台。
后ら女性たちは顔が見られないように、真下の小窓のあるところから踊りなど催しを見ていた。


これは何だ。井戸かな。

なるほど、間じかにタージ・マハルが臨める。


堅固な城壁は5kmに及び(現在は2.4km)、城砦としての機能も万全だった。
が、インド独立戦争で英軍に破壊された。
そして、長らくの間、英国人たちが住み着いていた
全く、怪しからん!


シャー・シャハーン帝の建てたムサンマン・ブルジュ。
帝は息子によってここに幽閉され、生涯を終える
亡骸は、小船でヤムナー川を渡り、せめてもの計らいでタージ・マハルに眠る愛妃の側に葬られた。
贅を尽くしたこの建物はもともと愛妃マハルの居室としてだった。タージ・マハルの建設といい、贅沢な建築を多く建てて財政危機をきたし始めた。息子のアウラングゼーブ帝が傾国を恐れて、父帝を退位幽閉した。

中庭にはワイン用の葡萄が植えられていた。
手前は噴水か。

この女物の窓から、シャー・ジャハーンはタージ・マハルを眺めて生涯を閉じた。
享年74歳。

女性たちのモスク

買い物に出られない后、姫、召使の女性たちのためのバザール
商人がやってきて、店を開いた。
何しろアクバル帝には300数十名の妃がいたのだから、その召使の女性たちも合わせれば、「三千の後宮」というわけだ。うん。その衣装や宝石、香料、化粧品などなど、たいへんな商いになる。うん。


屋上の涼み台。
夜、ここで踊りなどを見て涼む。
インドの夜は以外と涼しい。昼の暑さにはまいるが。この日、40℃とか。

黒大理石の玉座が欠けている。
英軍の大砲があたった。

タージ・マハルが霞む

モティ・マスジット(真珠のモスク)かな?

ジャハーンギル宮殿の回廊にもどってきた?

城の出口(入り口と同じ)に向かう。

エントランスの坂道を下る。

強固な城壁である。うん。

 

ジャイプールへ向けて出発

さぁ、次はジャイプールに向けて、約6時間のドライブ!!!
ひたすら西へ230km!!
気合を入れてまいりましょう。

外ではのら牛さんのお出迎え。

市営バスはどこでも一番混んででばっちく、目立つ。

 

ファティープル・シークリー

途中、アグラから40kmのところにある廃墟による。

アクバル帝が建設し、水不足と猛暑のため14年間しか使われなかった赤砂岩でできた街。
「勝利の都」と名づけられた。
3000の後宮がいるのに、跡継ぎとなる男子の子宝に恵まれなかったアクバル帝は、シークリーに住む聖人シェイク・サリームクバルに占ってもらったところ、予言どおり翌年男子誕生
帝はこの聖人にあやかって、都をアグラからここシークリーに移した

多くの建築家が携わり、イスラム様式とヒンドゥー様式が複合していて不思議な都となった。

アグラ門からは入る。

と、何やら不思議な建物が続く。

 

会談場
多くの外国からの客を招き、キリスト教の話もここで聞いた。
既に、ヨーロッパはインドの豊かさに触手を伸ばし、1600年には英国はポルトガル、フランスなどを押さえてカルカッタに東インド会社を設立、英国の支配を強める。
五代皇帝シャー・ジャハン即位が1627年。タージ・マハル完成が1653年なのである。

建物の内部は、豪華な絨毯や上質の布で飾られていた

ジョダ・バイ宮殿
  帝の住居。
  広い中庭をがらんどうの建物が囲む。

キャラバン・サライ(隊商)か。

裏庭に回ってみる。

風の塔と呼ばれるパンチ・マハル
柱と梁だけでできた五重の建物。

その柱は176柱あり、すべてデザインが違うという。
木造のようだが、赤砂岩。

テラスから現在の町を見渡す。
ここは、当時は貯水池で豊かな水が蓄えられていた。
が、ダムが決壊し、町を去ることになった。

 

途中、夕日を撮影。

すると、農作業からの帰りか、サリーのきれいな女性連れが人懐っこく寄ってくる。
暫らく自動車の窓から、家で待っている子供たちにお土産を頂戴!と、ガイドさんや運転助手に迫る。
その迫力たるや、何処も母は強し。
おせんべいなどあげたが、如何に。

 

 

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