とにかく一度観たかった憧れのタージ・マハール!
じっくりと鑑賞した。
1631年から22年間を費やして、当時隆盛を誇ったムガール帝国第5代王シャー・ジャーハンが、戦場にまで伴った最愛の妻マハルのために、城からいつも眺められる場所に造った大理石の廟。
正門への沿道。
わくわくする。
正門
正門入り口。
正門前の広場。
正門の対面にある入り口。
正門を背に、ぱちり。
前日買ったブルーのインドシルクのスカーフが、とても色鮮やかだ。
いよいよ門を潜って入場。
世界各国からの観光客でごった返している。
まばゆいばかりの白亜の廟。
乾季のせいか、花作りは上手でない!?
外壁はきれいな彫刻が施されている。
靴の上からカバーを履いて廟に上がる。
ぐるっとまわって、正面右側の外廊から観る。
後のテラスから、王の居城アグラ城が見える。
側を流れるのはヤムナー川。
この川沿いに遺跡が点在している。
ヤムナー川はデリーをも流れている。
正面左側になる。
四方何処から見ても同じに見える造りになっている。
正面から、入ってきた正門を眺める。
天国を称えるコーランが刻まれている。
きれいな大理石の壁に刻まれた繊細できれいな彫刻。
色彩は、ルビー、ラピスラズリー、オニキスなどの宝石が刻み込まれている!
小さな縞リスが多くいて、しゅるしゅる走っていてかわいいこと。
さて、タージ・マハルとはお別れ。
1565年から10年をかけてムガール帝国の基礎を築いた代三代帝アクバル帝の建てた赤砂岩の城。
ムガール帝国は、1526年成立の強大なイスラム王朝。
イギリスに植民地化されて滅びる。
インド北部各地のヒンドゥー教徒王(マハラジャ)を征服し、懐柔策として王の姫らを娶っていった。
中でも、三代皇帝アクバル帝は、月2回は結婚したといわれ、328名もの妻を娶ったとも言われる。
アクバル帝は読み書きはできなかったが、書記と、400人いたお抱え画家に毎日日記をかかせた。
その子ジャハーンギル帝、孫のシャー・ジャハーン帝と3代の帝が居城として使った。
イスラムとヒンドゥーの融合したムガール建築ができあがった。
城内には城だけでなくバザール、モスク、使用人の住宅などあった。
現在はここの80%が軍用地となっている。
アマル・シン門(南門)
観光客の入り口。
かなり頑丈の風体。
入って長い坂道のエントランスは、敵が侵入した時に上から障害物を転がり落とすために、階段にはなっていない。
ジャーハンギル宮殿の入り口
帝の私室。
帝の見晴らし台。
后ら女性たちは顔が見られないように、真下の小窓のあるところから踊りなど催しを見ていた。
これは何だ。井戸かな。
なるほど、間じかにタージ・マハルが臨める。
堅固な城壁は5kmに及び(現在は2.4km)、城砦としての機能も万全だった。
が、インド独立戦争で英軍に破壊された。
そして、長らくの間、英国人たちが住み着いていた。
全く、怪しからん!
シャー・シャハーン帝の建てたムサンマン・ブルジュ。
帝は息子によってここに幽閉され、生涯を終える。
亡骸は、小船でヤムナー川を渡り、せめてもの計らいでタージ・マハルに眠る愛妃の側に葬られた。
贅を尽くしたこの建物はもともと愛妃マハルの居室としてだった。タージ・マハルの建設といい、贅沢な建築を多く建てて財政危機をきたし始めた。息子のアウラングゼーブ帝が傾国を恐れて、父帝を退位幽閉した。
中庭にはワイン用の葡萄が植えられていた。
手前は噴水か。
この女物の窓から、シャー・ジャハーンはタージ・マハルを眺めて生涯を閉じた。
享年74歳。
女性たちのモスク。
買い物に出られない后、姫、召使の女性たちのためのバザール。
商人がやってきて、店を開いた。
何しろアクバル帝には300数十名の妃がいたのだから、その召使の女性たちも合わせれば、「三千の後宮」というわけだ。うん。その衣装や宝石、香料、化粧品などなど、たいへんな商いになる。うん。
屋上の涼み台。
夜、ここで踊りなどを見て、涼む。
インドの夜は以外と涼しい。昼の暑さにはまいるが。この日、40℃とか。
黒大理石の玉座が欠けている。
英軍の大砲があたった。
タージ・マハルが霞む
モティ・マスジット(真珠のモスク)かな?
ジャハーンギル宮殿の回廊にもどってきた?
城の出口(入り口と同じ)に向かう。
エントランスの坂道を下る。
強固な城壁である。うん。
さぁ、次はジャイプールに向けて、約6時間のドライブ!!!
ひたすら西へ230km!!
気合を入れてまいりましょう。
外ではのら牛さんのお出迎え。
市営バスはどこでも一番混んででばっちく、目立つ。
途中、アグラから40kmのところにある廃墟による。
アクバル帝が建設し、水不足と猛暑のため14年間しか使われなかった赤砂岩でできた街。
「勝利の都」と名づけられた。
3000の後宮がいるのに、跡継ぎとなる男子の子宝に恵まれなかったアクバル帝は、シークリーに住む聖人シェイク・サリームクバルに占ってもらったところ、予言どおり翌年男子誕生。
帝はこの聖人にあやかって、都をアグラからここシークリーに移した。
多くの建築家が携わり、イスラム様式とヒンドゥー様式が複合していて不思議な都となった。
アグラ門からは入る。
と、何やら不思議な建物が続く。
会談場。
多くの外国からの客を招き、キリスト教の話もここで聞いた。
既に、ヨーロッパはインドの豊かさに触手を伸ばし、1600年には英国はポルトガル、フランスなどを押さえてカルカッタに東インド会社を設立、英国の支配を強める。
五代皇帝シャー・ジャハン即位が1627年。タージ・マハル完成が1653年なのである。
建物の内部は、豪華な絨毯や上質の布で飾られていた。
ジョダ・バイ宮殿
帝の住居。
広い中庭をがらんどうの建物が囲む。
キャラバン・サライ(隊商)か。
裏庭に回ってみる。
風の塔と呼ばれるパンチ・マハル。
柱と梁だけでできた五重の建物。
その柱は176柱あり、すべてデザインが違うという。
木造のようだが、赤砂岩。
テラスから現在の町を見渡す。
ここは、当時は貯水池で豊かな水が蓄えられていた。
が、ダムが決壊し、町を去ることになった。
途中、夕日を撮影。
すると、農作業からの帰りか、サリーのきれいな女性連れが人懐っこく寄ってくる。
暫らく自動車の窓から、家で待っている子供たちにお土産を頂戴!と、ガイドさんや運転助手に迫る。
その迫力たるや、何処も母は強し。
おせんべいなどあげたが、如何に。
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