7:00 夜が明ける。昼が12時間、夜が12時間というのが一年中のマレーシア。
E & Oホテルにお別れ。ショートステイでした。
クアラルンプールからバンでマラッカへ。
沿道一体は油脂を採るための椰子のプランテーションが続く。
料金所。幹線は片道4車線で完備されている。新幹線鉄道がないからとのこと。
途中、高床式のマレー人の典型的な家に案内された。
庭の木。
名前を忘れた。
昼食はマラッカ名物ニョニャ料理。
*ババニョニャとは、マレー女性と中国人男性が結婚して、生まれた男子がババ、女子がニョニャ。
2つの文化が混ざって新しいものが作られた。
ニョニャ料理はそうした新しいマレーシア料理だった。さまざまなスパイスとココナッツがベースの中華料理といったところ。
(ニョニャ・レストラン)
(ニョニャ料理)
オランダ統治時代の赤い建物で囲まれている。教会はオランダ製のレンガを使用。
<スタダイス> 1650年代にオランダ総督公邸として建てられた。
<マラッカの木>
オランダ広場に説明つきで植えてある。小さな実がたくさんついている。これもまた香辛料なのであろう。
マラッカという名の木。この木の名がここの地名となった。
前の運河がかつてのマラッカ港。
セント・ポール教会。
ポルトガル人宣教師が1521年に礼拝堂を築いたのがここのはじまり。
海賊に破壊されたり、オランダ、英国の要塞となり、マラッカ王国と闘った。
その廃墟のまま。
フランシスコ・ザビエルの遺体が、一時安置されたところ。
ザビエルの遺体は、彼が布教の拠点としていたインドのゴアにある教会に、現在でも腐らずにミイラ状態で眠っている。奇跡とされている。
ザビエル像。
フランシスコ・ザビエル(スペイン人)は1545年、この地から、日本人流浪者万次郎に影響されて共に日本に向かった。
<マラッカ海峡を望む。>
丘からは、遠くマラッカ海峡を航行する船が見える。いまだに海賊がでる危険な海峡だ。
(サンチャゴ砦に降りてゆく途中で。)
ハイビスカスの花。
1511年、ポルトガルが東西貿易の橋頭堡として築いた丘を囲む要塞の解説。
(要塞の門)
今はこの門が残るのみ。
当時は海岸に面していて、遠くポルトガルの方向を向いていた。
オランダ東インド会社にも使われた。
<スルタン・パレス>
マラッカ王国の宮殿を復元したもの。木造高床式で、文化博物館。
<独立宣言記念館>
1956年、マラッカは英領からの独立を宣言。その記念館。
建物は1912年に英国人社交クラブとして建てられたもの。
* さて、これはナンでしょう?
露店の駄菓子やさんが並ぶ中で、一際目につくピンク。
ちゅうちゅう吸うのかしら。
いえいえ、アミの塩辛のような、こちらの調味料だそうです。
駄菓子やに置くなんて。
ちなみに、下の段のものも海藻か何かの乾物でした。
19世紀後半のババ・ニョニャの豪邸を公開している。
ここの子孫は現在広大な農園を所有している。
黒檀や大理石がふんだんに使われ、調度品や婚礼衣装、家具など、贅を尽くしたもの。
撮影禁止。外側だけOK。
(ババ・ニョニャの家並)
(入り口。奥に深く広く高い。凄い。)
* ババ・ニョニャ(ペラナカンともいう)
15世紀はじめ、中国明の時代、宦官鄭和が南海遠征の途中マラッカにより、その残留乗組員が定住し、男ばかりのため、マレーや近隣諸島の女性と結婚して海峡華人(ペラナカン)社会を築いた。そして、いわばハーフが生まれ、男子をババ、女子をニョニャとよぶ。代々融合して特徴ある文化を創った。
鉱物資源(錫など)開発やゴム園で大成功を収めてきた。
<青風亭(チェン・フー・ティン)>
華人によって1646年、鄭和のマラッカ寄港を讃えてたてられた仏教寺院。
華麗な建材、仏具は全て中国から取り寄せたもの。
当時のまま。
(多くの華人が礼拝に訪れている。)
周りには骨董屋や雑貨店が多い。チャイナ・タウンだ。雑貨店に、真っ赤な多分木製のサンダルが大小多数下がって、多分売っていた。多分縁起ものであろう。
何だかご存知の方、教えてください!
<走るバンの中からマラッカ港を望む。>
クアラルンプールへの途中、30分強ほど、猛烈なスコールに見舞われ、渋滞にはまった。
ザ・リージェント・ホテルに泊まるので、そこにチェック・イン。夕食まで休憩。
(ホテルの窓からKLタワーの上部がみえる。明日の昼食は、あの回転展望レストランだ。)
(見下ろすと、赤いモノレール。)
<民族舞踊レストランのスリ・マラユで食事。>
(入り口)
(内部)
(民族楽器)
(我らが仲間も飛び入り参加)
<ザ・リージェント・ホテルの夜の外観>
夜も更けました。
お疲れさん。
お休みなさい。
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