『日本人へー危機からの脱出編』 塩野七生 文春新書 850円+税
彼女の著書を初めて読んだのは、確か『ルネサンスの女たち』だった。しかもこれを薦めてくれたのは亡母だった。明治生まれの母も必死に女の生き方を探っていたのか。
その他の大作も幾冊が読んだ。西洋の歴史に興味がある者にとってはたまらなくわくわくするのだ。
本著は、そんな著者の執筆の裏話もちらほらとあり、関心をもった。
と同時に、半分はローマに暮らす彼女が、この度の未曾有の大震災をどのように捉えているか知りたかった。
案の定、冷静に辛口に世界史的にグローバルな視点で、しかも実地に被災地に足を運んで取材していて、成る程と気付かされる指摘ばかりだった。
「日本には、ほんとうの情報は届いているのか」では、
日本から要人が外遊する際、その省の記者クラブの記者が随行して取材する。従って、その要人の言動が現地でどう受け止められた、どのような効果をもたらしたかは日本に伝わらない。
皇太子さまの案内役で古代ローマの街道と水道跡を案内したとき、現地の新聞記者は殿下の前を通ってはならぬなどなどの厳命を受けていた。が殿下はプロトコールなどに捕らわれていなかったと、イタリアの新聞に載った。
誰も知らない小さな子供用サッカー場から見る美しい高架水道をご覧頂きたく案内した。要人の受け入れなど不慣れだったサッカー場。子供たちを教えている元プロサッカー選手たちが着慣れない背広にネクタイ姿で手の置き所もなく殿下を迎えた。その気詰まりを一機に和らげたのは、近づかれた殿下が微笑みの手をさしのべたとき。元選手たちも「信じられない」という顔で握手しちゃったのである。
これには現地のマスコミは完璧に反応。イタリアで知られていた皇太子像は、憂愁から抜け出せない妻をもつ夫であり、不登校の娘をもつ父親。厳格な取材の決まりもあって、皮肉や意地悪な記事がでるかもという予想は、この愉しく人間的なハプニングで一掃された。
現地駐在の特派員をもっともっと活用しては、と。
「「がんばろう日本」はどこにいった?」では、
1年振りに帰国した日本で、日本人の同胞、しかも被害者への、かくも卑劣な残酷さに直面して愕然としている、と。
いわゆる風評被害である。加害者は自ら手を汚さす、福島県産と言うだけで買わない、場合によっては当局に抗議のメールや電話を送りつけるだけ。京都五山送り火、愛知県日進市の花火、大阪府河内長野市の橋桁、瓦礫受け入れ先などなどを巡る騒動。
風評被害の加害者になることから卒業して、日本全体で処理することによって、瓦礫からも卒業しようではないですか、と。
「民主政と衆愚政」では、
原発も基地も日本全体にとっての重要きわまりない安全保障上の問題。それを地方に丸投げして責任をとらない国政は責任回避としかみえない。地方では声をあげ始めた民衆という「民意」があり困惑している。
衆愚政とは有権者が愚かなのではなく、有能な有権者たちが多種多様な声を高くあげ始めた結果、その民意の声の整理が出来、優先順位を決められる冷徹な指導者に欠いている政治。
民意を尊重するという盾に隠れているだけの民主政では、何も決められない。
「最近笑えた話」では、
楽天やユニクロが日本の社内でも英語オンリーと聞いたときご冗談でしょうと思った、と。
外国語はあくまでもよそゆきの言葉、創造力を自由に羽ばたかせるのは母国である。と。イタリアに50年は住み、イタリア語だけでなく英語、ギリシャ語などなどを熟すであろう著者の考えである。外国語は人間性の自然に多少なりとも反すると、著作活動を通して断言している。
その他、「「スミマセン」全廃のすすめ」、「たくましきは女?」、「スポーツとバトルの間」、「さよならミセス・サッチャー」などなど、読み応えの多いエッセイ集だ。
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